NPO法人 ニュースタート事務局関西

直言曲言 第143回 「他人の迷惑」

By , 2005年11月27日 4:04 PM

ニュースタート事務局では、『不登校の子や引きこもりの子に、親が言ってはいけないこと3か条』ということを言っている。『①早く自立しなさい。②早く目的をみつけなさい。③他人に迷惑をかけるな』の3か条である。一番目と二番目は現実に『自立できていない。目的がみつからない。』のに言っても無駄ということである。三番目を言いたいのが我々の本音である。『他人に迷惑をかけるな』とはよく言うことである。特に過密社会である現代社会においては、『他人』のことを気に掛ける傾向が強いようである。この『3か条』は代表の二神からの受け売りであるが、三番目の『他人に迷惑を掛けるな』だけは私なりの解釈を付け加えて申し上げている。たいていの親はこれを言うと『不満そうな』顔をする。『当然のこと』なのに『なぜ言ってはいけないのか』ということであろう。

『他人に迷惑を掛ける』といってもいろいろある。『犯罪』すれすれの行為もある。親や大人たちはほとんどそんなニュアンスで語る。『他人に迷惑を掛けなければ、どんな生き方をしても良い』などと「許容」されれば『他人に迷惑を掛ける』ということがどれほど悪質なことかと思う。そのくせ『他人に迷惑を掛ける』ということには明確な構成要件がない。つまり何をやってはいけないという基準がないのである。

都道府県にはたいてい『迷惑防止条例』なるものが制定されている。『ダフ屋行為』とか『騒音』とか『たむろ』する行為とかで、これが禁止されている。通常は犯罪とまではいかないが、「市民生活の平穏を脅かす」恐れのある行為というわけである。「市民生活」なるものが高度化し具体的に守るべき質が明確化されたのであろう。もともとは戦後に制定された『軽犯罪法』というものがあった。『刑法犯』というほどではないが、軽微なルール違反について定めた法律である。『立小便』とか『電柱に張り紙する』とかの行為で、せいぜいその場で説諭すれば釈放されるような行為であり、警察官の職権拡大のために制定された法律という声さえあるのである。『迷惑』とはことほどさように定義が難しい。戦後都市化が進み、過密社会になるに従って『迷惑』の基準が厳密になっていったのであろう。親は『犯罪を侵してはいけない。』という程度の意味で言っても、子どもはあらゆる道徳律を破ってはいけない』という意味で解釈してしまい、『他人に迷惑を掛ける』ことを恐れるようにまでなってしまう。

『他人に迷惑を掛ける』ことを恐れるとどうなるのか?他人に近づくことを怖がるのである。結果として友達が出来ない。実際に、一切人に迷惑を掛けない、掛けられないとなると、『人に近づかない』ようにするしかないのである。子どもが引きこもりになっているのに『他人に迷惑を掛けるな』ということを言うなというと、『私は間違ったことをいっていない』といって開き直る人がいる。こんな人は自分の言葉がどのように伝わっているかについて配慮のない人である。こういう人に限って自分は『他人に迷惑を掛けていない』と確信する人である。

ところで私は、最近脳梗塞を患い長期入院をし、看護婦さんに迷惑を掛けざるを得ない立場になった。『他人に迷惑を掛けるとはどういうことか』と考えざるを得なくなった。病院にいれば看護婦さんに迷惑を掛けるのはしょっちゅうである。医療行為にかかわらず、朝起きる、着替え、トイレ、朝ごはんと日常生活のほとんどに看護婦さんの手が掛かる。看護婦さんであろうと雑役婦さんであろうと、彼女らは仕事として淡々としてそれをこなす。いやな顔ひとつするわけではない。病院ではベッドを含め、あらゆるところに『ナースコール』というのがついている。『非常呼び出し』という意味である。これを押せば看護婦さんはどこへでもすぐに来てくれる。入院してしばらくたったあるとき、私は『ナースコール拒否症』に陥った。何でも看護婦さんがやってくれる。それに慣れっこになっている自分にいやになったのである。別に高級な感情ではない。『自分ひとりで何でも出来なくなっていく自分』が怖くなったのである。『他人の面倒』拒否症に陥ったのである。

しかしそんなことに、『ナースコール』を押さないからといって看護婦さんが感謝してくれるわけではない。私が『ナースコール』を押そうが押すまいが看護婦さんは来てくれて、私の身の回りのことをやってくれる。むしろ『ナースコール』を押さないなんて『意地』になっている患者は面倒くさくてかなわない。すなおに『ナースコール』を押してくれるほうがよほど手間が省けるというわけである。思うに自分は『他人に迷惑』をかけずに生きていくことは出来ないのではないか?そもそも、人は『他人に迷惑』を掛けずして生きて行けるのだろうか?そう思うと急に『ナースコール拒否症』が馬鹿らしくなってやめてしまった。

人の世とは、常に人と人とが助け合わなければ生きて行けない世の中である。また、助け合うことによって、より生きやすい世の中が生まれてきた。『他人に迷惑を掛けるな』なんていう人は、人と人が仲良くすることを羨ましがっているに違いない。でなければ、他人の『善意』をすべて金に換算しようという『自由取引絶対論』者に違いない。でなければ『犯罪』と『善意』の行為の見分けが付かない人である。『他人に迷惑』を掛けるくらい『良いじゃないか』それが『犯罪』でない限り、少しくらい大目に見られても、許されるべき社会なのである。 『犯罪』と『他人の善意』の見分けが付かない。それが悲しいことに『引きこもり』の現実である。『臆病』になることは仕方がない。少なくとも、周囲の人はそれに拍車をかけるような脅しをかけてはいけない。

『他人に迷惑を掛けるな』という親は実は、「『絶対に』加害者の立場に立つな」という親で、加害者の立場には絶対に立たないという自信を持っている。そのことは、実は加害者に対して最も非寛容な立場であることを表しているのである。我々は、人として社会を構成している。ということは、加害者にも被害者にもなりうる立場である。被害者にはなりうるが、絶対に加害者にならない立場というのは常に善人ぶっている人のように扱い辛い人である。将来他人に迷惑を掛けることを想定して、せいぜい他人に『善意』を施しておくべきである。

2005.11.27.

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