直言曲言 第104回「立ちどまる時」
ギリシャのアテネ・オリンピックで女子マラソンの中継を見た。過酷な条件の中で日本人選手が見事に優勝した。それにはそれで感動したのだが、途中で競争中止をして棄権する選手が続出するのが気になり、こんなことを考えさせられた。
マラソンと言えば42.195キロを走りぬく競技。オリンピックに出るほどの選手なら、十分な練習を積んで、万全の体調を整えて試合に臨んで来るのだろうが、それでも途中で競走を中止せざるを得なくなる選手もいる。最近では国内でも市民マラソンが盛んであり、数万人規模の参加者があるマラソンもある。そんな競技では、練習不足の人も多く、意気込んで走り出したものの自分の体調不良に気づいて、早々と棄権してしまう人もあると言う。ましてマラソン初体験の人なら、最初の数キロを走っただけで、とても完走など出来ないと諦めてしまう。
学業を途中で放棄して、不登校や引きこもりになってしまう人の姿は、どこかこれに似ている。不登校になる人には、上級の学校に入って間もなく立ちどまってしまう人が多い。もちろん、学校生活のいつの時点でも、不登校になる可能性はあるのだが、高校に進学した人で、入学式に出席しただけとか、3日ほど登校しただけで不登校になり、やがて退学をしてしまう人が多い。『進学した高校に失望して』という理由は、もっとも考えやすいのだが、『入学式に参加しただけ』とか、『3日間登校しただけ』と聞くと、<失望>するほどの<体験>もしていないだろうと思える。おそらく、進学した高校に失望する以前に、3年間の高校生活をやり遂げるだけの<気力>が自分にはないことに気づいて、やめてしまうのではないだろうか?中学校を卒業して、と言っても中学は義務教育なので誰でも無理やり卒業させられるのだが、高校に進学する段階で既に<燃え尽き>てしまっているのだ。それならいっそ高校になど進学しなければ良いのだが、高校進学率が95%の現代では『高校に行かない』という選択肢は予め与えられていないのに等しい。昔は<金の卵>などとおだてられた中卒であるが、今ではよほどの例外でない限り、企業からの求人もない。高校進学を放棄すれば親は落胆し、その時点で人生の落伍者のような烙印を受けることになる。
大学に進学した人では、入学後1~2ヶ月で登校しなくなる人が多い。それなりの受験勉強をこなしてきたので、大学生活に一応の夢は持っている。ところが昔からある『五月病』は今でも、誰でも罹りやすく、これがきっかけになる。まず講義に落胆する。教授たちの話に魅力を感じず、高校までのようなクラス制度もないから、友人も出来にくい。親元を離れて進学した人は毎日の生活管理が出来ず、午前中の講義に出席できなくなり、やがて単位取得の展望を失う。ここまでは、まず普通のことであり、クラブ活動に参加している人なら、仲間や先輩から大学生活の送り方の指南を受けて、適当に遊びながら、試験期には他人のノートを借りて乗り切るという方法を自然に学ぶ。ところが、大学生の不登校や引きこもりになる若者は、生真面目で融通の利かない人が多いから、自分ばかりを責めて、自己不信に陥る。周囲の仲間が<大人>に見えて、自分の幼さばかりが気になる。つい、この間まで親や先生の言うことばかり聞いてきたのだから、大人としての自覚がないのは当然である。ほんのしばらくの間、周囲にあわせて<大人>のふりをしていればよいのだが、それが出来ない。
専門学校に進学した人では3ヶ月程度経った頃が危ない。大学進学を選択しなかった人は、ある意味で現実的な目標を持っている。少なくとも、その<目標>が<現実的>なものであると思い込もうとしている。たいていは、高校時代の学業が振るわず、あるいは有名大学に進学した兄や姉などと比較されるのが嫌で<現実的>目標を持とうとしている。だから、入学当初は一生懸命知識や技術を身につけようと頑張る。だから3ヶ月程度は意欲を保てるのだ。しかし、多くの専門学校ではカリキュラムそのものがお粗末であったり、講師陣が人材不足であってアルバイト感覚の教師が多い。しばらくすれば、『自分の学んでいる内容が果たして社会に出て役に立つのか?』という疑問が湧いてくる。大学生ならまだクラブ活動やその他のキャンパスライフに、気分転換の余地があるが、専門学校にはそもそもキャンパスライフなどと言う悠長なものが存在しない。専門学校で留年や休学というものは存在しないに等しい。希望を失ってしまえば、即不登校、退学になりやすい。
私は高校でも、専門学校でも、大学でも希望を失い、不登校になってしまえば、退学することに躊躇する必要はないと思う。そもそも、進学したこと自体が間違いであった可能性も高いと思うからである。しかし、現実にはそんな楽天的な態度で退学できる人はほとんどいない。小学校や中学ならともかく、高校以上での途中退学はほとんどが『引きこもり』につながっていく。学歴を放棄すれば『引きこもり』にならざるを得ない理由などどこにもないのだが、競争社会で競争を放棄することは『敗北』『敗残』『落伍者』という<社会通念>が強すぎるからである。
マラソン途中で棄権する選手も観衆の辛い目に晒される。途中で走り続けることを断念して、それでも歩きながらレースを続行する選手には観衆のまばらな拍手が送られることもあるが、たいていの場合、歩道に逃げ込むか、救護車の中に隠すように押し込まれる。まるで脱走兵のように、戦い続けることを止めた『反逆者』として扱われるのである。国によっては、敵前逃亡は重罪犯として裁かれる。ひょっとすると正義のない、無意味な戦いを止めた『勇気ある人』として声援を送られてもよいのに…。 私は『競争』自体を非難するつもりはない。1位に金、2位に銀、3位に銅のメダルを与えるオリンピックの慣わしを揶揄するつもりもない。今年のアテネ・オリンピックは、日本は記録的な金メダルラッシュになりそうだ。あの昭和39年の東京オリンピックの時の金メダルの数を凌駕するかどうかが関心の的になっている。東京オリンピックと言えば、日本の高度経済成長路線が磐石のものになりつつあった時代である。
今年の金メダル獲得数順位は今日(8月24日)現在で1位が中国、2位が米国、3位が日本である。かつてアメリカとともに金メダル獲得数の首位を争ったソ連(現ロシア)はウクライナなどに国力を分散しているとは言え、下位に低迷しており、中国との逆転現象は明白である。オリンピックの勝者の数が、経済的な国力や経済成長率にリンクしているのは最早隠しようもない。勝者を手放しで称揚し、敗者を白眼視する『競争社会』の慣わしは、手っ取り早くスポーツの世界に反映されている。金メダルはまさにお金の象徴でもある。
女子レスリングで決勝戦進出を阻まれた浜口京子選手の父親は、絶叫調の声援でほほえましい父親として知られた人である。しかし、浜口敗退の時のこの父親の錯乱振りを私は何かおぞましいものを見たような気持ちで眺めてしまった。 世の父親達よ、子ども達を『叱咤激励するな』とは言わない。かし、子ども達が敗れた時、立ち止まった時、『無理に走らなくてもよいよ』とせめて声を掛けてあげて欲しい。
8月24日