直言曲言 第103回 「錯乱と妄想」
引きこもりには3段階に分けられる状態像があることを『引きこもりの外側にあるもの』(2004.7.21『直言曲言』)で述べた。私はもちろん医学者ではないし、医学的権威により裏付けられてもいなければ学術的根拠もない。ただ、私の経験上の分類である。
引きこもりといわれている若者の約10%は、自宅から全く外出せず、親や兄弟以外の人とコミュニケーションせずに生活している。全体の約30%は夜間などに人目を避けるように外出し、CDのレンタルショップやコンビニなどに行けるが、友達はいない。残り60%ほどは、外出は出来るし、簡単なコミュニケーションが出来る程度の知人がいるが、親友と言えるような信頼関係を結べる他人はいず、学校に籍をおいていてもほとんど不登校状態であり、あるいは卒業または退学後も就職は出来ない。これをそれぞれ、1種・2種・3種の引きこもりと名づける。
いずれも、競争的関係(主に受験勉強)のストレスから、対人恐怖や人間不信に陥り、心を閉ざしてしまった状態である。中流家庭の子女に多く、本人はプライドが高く、内心では上昇志向に苛まれている例が多い。第3種の引きこもりは、最初から比較的軽い状態であった人が多いが、第1種、第2種の引きこもりから段階的に改善されていった例(ニュースタート事務局などの支援活動の成果)も見られる。
第1種・第2種には視線恐怖や醜形恐怖などの神経症状が見られることも多く、時には錯乱状態や妄想状態に陥っていることもある。「妄想」が見られる場合、精神科医は『統合失調症』(旧呼称は『精神分裂病』)を疑い、現に医師から『統合失調症』と診断されたことのある第1種・第2種の引きこもりの若者も少なくない。私は、医師の診断を覆すほどの医学的知識を持たないし、私のような医学の素人が『統合失調症』の患者を扱うのは危険だと言われているので、当然ながら慎重に観察せざるを得ない。しかし、医師の診断にも関わらず、その診断を信用できず、私たちのところに相談に見える親も少なくない。彼ら親たちが、医師の診断を信頼できない理由は主に次の3つである。
①『統合失調症』の診断を受けたが、『錯乱』していたのは一時期だけで、自分たちの観察では精神障害があるとは思えない。
②幾つかの病院やクリニックを訪ねたが『統合失調症』と診断されたのは1箇所だけで、他の病院では『強迫神経症』と名づけられたり、別の病院では『病気ではない』と言われた。
③診断後、数年にわたり入院または通院し投薬治療を受けたが状態は改善せず、本人が服薬を拒否してからも、特に状態の改悪は見られない。
このような、医師の診断に対する不信感に対し、直ちに同意することは避けているが、もし精神科の医師が『引きこもりは病気(精神病)ではない』とする『仮説』を想起していてくれれば『誤診』による入院やそのこと自体による結果的な精神的打撃や薬物の長期服用による弊害がなかったかも知れないと思うことは多々ある。
なぜ、引きこもりの第1種や第2種の症状が『統合失調症』と誤診されうるのか?それは、一時的に『錯乱』や『妄想』などの『統合失調症』類似の『病態』を示すからに他ならないのだろう。人間は強い持続的なストレスを受けた場合、神経系の強い疲労を感じ、ストレスからの回避行動を取る。意識の上では、労働などの長期の持続に対し、休息を取り、レクリエーション活動を行うのもそのひとつである。重い責任感から、レクリェーション行動を取れず、残業続きで『過労死』にいたるケースもある。『過労死』は肉体の死であるが、脳神経に対するストレスが極度に及んだ場合、本人の意識とは別に神経系が緊急避難行動を取り、ストレスを回避しようとする場合もある。それが一時的な『錯乱』であり、『妄想』を伴うこともある。まさに神経の『失調』であり、『統合失調症』に酷似するのである。『精神分裂病』という定型的で、固定的な『病名』を改め『統合失調症』という診断名に変えたのも、そのあたりの医学的な知見や配慮の成果であると考える。
『統合』の意味は不明であるが、私は『一時的』『部分的』な症状ではなく、ある程度『持続的』で『総合的』に判断するという意味だと理解している。ところが一部の医師は、名前は変えたが『統合失調症』を依然として『精神分裂病』と同様の固定的・定型的『病状』と捉えており、『経過観察』や『妄想』からの離脱を評価せず、器質的な欠陥とのみ理解しているのではないか。たとえ『一時的』であれ、器質的な『失調』が表れ得ることは譲歩してよいが、それが外部からの強烈なストレスの結果と類推すれば、器質的欠陥が固定化すると考えるのは、科学的態度として受け入れ難い。
『錯乱』や『妄想』を体験したことのある『引きこもり』は、かなり多い。簡単な聞き取り調査では、第1種や2種の引きこもりの過半を占めることがある。しかし、聞き取りが可能となっている、つまり他人とのコミュニケーションが実現できている段階では、彼らの日常を観察しても、『錯乱』や『妄想』とは既に無縁であり、平静を取り戻している例がほとんどである。 肉体的疾患(病気)の場合を想定しても、難治の病気があるにはあるが、大部分の場合は罹患や治癒の状態を繰り返している。ストレスによる一時的な錯乱や妄想を固定化して、病気の宣告をしたり、それが一生付いて回る病気であるかのようにレッテルを貼るのは間違いであると思う。
一方で、引きこもりの場合、精神的ストレスは簡単には除去できない。ストレスを感じるのは原因となる状況があるからであり、その原因を取り除かない限りストレスを受け続けることになる。本人は錯乱や妄想の体験から、無意識に回避行動を取ることが出来るようになるが、周囲や社会はそのことに気づいていず、依然としてストレスを与え続ける。 第1種や第2種の引きこもりの場合、家族以外の人とほとんどコミュニケーションが出来ていないのだから、ストレスもまた『家族発』のケースが当然多くなる。つまり、社会規範や「こうあるべき」と言った「古い」価値観に押しつぶされそうになっているのに、家族もまたそうした規範を自明のこととして、引きこもり本人を異常・異端視していては、ますます外の世界に出て行くのを怖がるのは当然である。
精神科による治療を受けさせるのも、彼らが感じるストレスにまったく共感せず、異常であると決め付けているからである。精神科医による治療(多くは投薬)が無効であることに気づいた家族は、『説得』によって本人を引きこもりから『脱出』させようとする。しかし、多くの場合家族による説得はほとんど無効である。引きこもり本人は、家族に依存しながらも、家族が決して『引きこもり』の理解者ではないことを体験的に身に沁みて感じているからである。つまり、本人の感じているストレスを家族たちは感じないのであり、少なくともそのストレスを除去するための『共闘』の仲間とは感じられないのである。 引きこもり状態の改善のためには、第3者の手助けが必要と言われている。単なる『他人』であれば良いという意味ではない。真の意味で、社会的ストレスの元となっている制度やシステムを改変することに対して共に戦ってくれる仲間を求めているのである。
ただし、すべての引きこもりの感性や感情が正当化されるわけではない。そこのところをわきまえず無条件に共感することは援助ではなく、引きこもりの現状維持に加担することになる。
2004.08.11.