直言曲言 第100回 「鳥瞰図」
鳥瞰図というものをご存知だろう。平面図や立面図のような正式な建築図面ではないが、斜め上から見下ろした見取り図のようなものである。建物の全体像が良くわかる。より大きな空間の状況を知ろうとすれば、描画の際の視点を高いところに持っていけばよい。たとえば鳥の眼の高さ、だから鳥瞰図のことを『バード・アイ』ともいう。飛行機から撮った航空写真も鳥瞰図の一種である。さらに高い視点からは気象予測の衛星写真もあり、地球全体を俯瞰する人工衛星からの映像もある。
最近のある勉強会で参加者のY君が読書成果を発表した際に『自分は鳥瞰図のような視点を手に入れたい』と言った。もちろん、これは単に『高い地点から地上を眺めたい』といったのではなく、そのような視点から『社会』のことを広く見てみたいという意味である。私は、引きこもり当事者の発言としてはきわめて適切で、かつユニークな表現だと思った。現に彼は『自分の生活空間は乱雑な自室にほぼ限られており、広い世界のことを見ていない』と補っている。
そこで私はY君に対してこう言った。引きこもりに対しては、いささか酷な要求で、たぶんに意地悪な発言であることは承知の上での発言である。 『鳥瞰図を描こうと思えば、まず家を出て、広い地表を歩き回らなければならない』実際に、人間が鳥のように空を飛んで地上の景色を描くことはできない。写真を撮るのなら、航空写真という手はあるが、ここで言われている『鳥瞰図』とは単なる地上の俯瞰図のことではない。いわば社会の見取り図のことであり、それを手に入れたいと言っているのである。そのためには数多くの社会体験が必要なのは言うまでもない。
もう少し鳥瞰図の比喩を続けよう。航空写真や衛星写真に頼らずに、人間が鳥瞰図を描く手法には二通りの方法がある。ひとつは、地図を広げその位置ごとにどんな建物や樹木などが生えているのか、現地を踏査したり、実際の建物をスケッチしてきて、それを上から見た図形として想像しながら描く方法である。都市計画に用いられるイラストレーション図法としてかなり普及している。もうひとつは、コンピュータグラフィックの手法であり、個々の建物や構築物の設計情報を入力し、立体図形を描き、任意の視点からこの建物を眺めることができる。個別の建物なら別だが、街全体をこの手法で描こうとするなら膨大なデータ入力が必要となる 鳥瞰図とは、まったく正反対の手法として『虫瞰図』というものがあり、虫の視点から見上げた世界の見取り図(インセクツ・アイ)のことであるが、鳥瞰図とは実はこの『虫瞰図』手法による情報収集によって可能になる描画手法なのである。まさに、虫のように地表を這いまわらなければ手に入れられない視点なのである。
私は引きこもり支援活動の中で、引きこもりの親たちから多くの相談を受けている。そんな中で、親から最初に聞きだすのは、息子や娘たちの引きこもりの経過や現在の様子であるが、それは当たり前のように多くの誤解や、無理解の非難の言葉に満ち溢れている。そんな時の私の立場は、引きこもりの若者の代弁者であり、弁護者である。しかし、私が若者の行動やものの考え方をすべて肯定しているかというとそうではない。私は引きこもりの若者にとっては、意地悪で辛辣な要求をする批判者である。
若者が引きこもりに陥るプロセスについては、個々の若者や親たちの責任ではなく、社会制度(システム)の老朽化による社会病であり、若者たちはむしろその被害者である。親にも直接の責任はないが、老朽化して適切でなくなっている社会システムを子どもに押し付けてきたという『間接的責任』はある。しかし、引きこもりになった若者がその状態から抜け出すためには『社会』の責任にしているだけでは不十分であり、まして親の責任に転嫁してもいけない。自分自身がそこから抜け出すための主役であり、そのための努力が必要となる。親や第三者である私たちは、その手助けをするに過ぎない。この点を誤解し続けている引きこもりが多すぎる。
引きこもり状態になれば、結果として外界と遮断され、人間体験・社会体験・労働体験が不足し、視野狭窄となりきわめて自己中心的な社会観を持つようになる。これは引きこもりの若者を非難しているのではなく、ある意味で致し方のない事態である。ただし、その状態の自己をどのように客観視して、社会化(自己組織化)への視点を持つようにするかが大事なポイントである。残念ながら引きこもりになってしまい、対人恐怖などが強くなると、他人と社会観を共有することが困難になり、自分のそれまでの狭い社会観(世界観)に拘泥するようになる。そもそも、自己を社会的存在であることを認識できない状態であるから、社会を自己の外側に位置づけてしまい、社会との一体感を持てない。このことは、自己を世界から拒絶された存在として見てしまうことであり、逆説的には自分だけの世界を持つことであり、自己神格化や独善主義に陥るのである。
ところで最初の『鳥瞰図』を手に入れたいと思ったY君は、この独善主義の過ちと限界性に気づき、自分だけの世界から抜け出し、世界(社会)を広く見渡す視点を手に入れたいと考えたのである。しかし『鳥瞰図』を手に入れるということは、前述したように虫のように地表を這いまわりつつ、世界(社会)の情報を手に入れ、体験を積むことである。あるいは実体験だけでなく、読書をすることや様々な芸術鑑賞を通じて、人間的な感情を追体験することも含まれる。 残念ながら、引きこもりの人は人間体験そのものが不足しているし、苦手だから外の世界で這い回る勇気がない。早い話が海外旅行に出かける勇気もない。
人間体験が不足していると、芸術鑑賞をしてもその感覚の追体験すらできない。極端に言えば、目も見えず、耳も聞こえない、感覚を遮断されて孤立しているような存在になってしまう。こつこつと人間体験や社会体験を積み上げることに苦手意識を持っている人は、虫のように這い回ることについては絶望的になり、その代わり『一発逆転』のように一挙に世界を獲得する手段を 夢想する。『鳥瞰図』を手に入れるとは、虫のような努力の果てにではなく、一挙に空に舞い上がり鳥の視点を手に入れようとしているのである。
『鳥瞰図』=『社会の見取り図』を手に入れることとは『社会』=人と人との結びつきを学ぶことである。孤立している人もある、深い友情や隣人愛で結びついている人もいる。騙したり、騙されている人間関係もある。戦争をしている人たちもいる。雇う人と雇われている人の関係もある。取引関係の人たちもある。 ある人間が広い社会観を手に入れるためにはどんな方法があるのか。多くの人に会うことしかない、少なくともそれが第一歩である。
1人の人間と知り合う、1冊の本を読む。そこからしか始まらない。ただし、自分の心を開かなければ、人と接触してもそれは表面的なつながりにしかならず、自分の心に届かず、蓄積にはならない。人と知り合い、そしてそのことの繰り返しに慣れていくこと。『鳥瞰図』を手に入れるためには膨大な経験の積み重ねが必要である。膨大といっても悲観する必要はない。たった1年か2年。その間に彼らは驚くほど膨大な人間に出会うだろう。
6月16日