直言曲言 第99回 「主人公は誰?」
例会(『引きこもりを考える会』)にも鍋の会にも父母懇談会にもよく参加されるお母さんがいて、お子さんの引きこもり問題の解決に、非常に熱心なお母さんがいる。しかし、いくらお話していても、ご主人の話がなかなか出てこない。でも離婚されているわけでもない。
『一度お父さんとご一緒にいらっしゃってください』というと 『主人はとても忙しいので…』とおっしゃる。 『ご主人はお子さんのことを心配していらっしゃらないのですか?』 『いいえ、そんなことは…。でも、仕事がとても大変な時期で…。子どものことは私にまかせっきりで…』
こんなお母さんが非常に多い。ご主人(お父さん)の仕事が忙しいのはわかる。「仕事がとても大変な」というのもこんな時期だから分かる。しかし、引きこもり問題の解決というのは、第一歩を踏み出しさえすれば一安心だが、そこまで進んでいないケースでは「仕事が忙しい」という理由で放置できる問題ではないはずだ。
父親が仕事(収入を確保すること)に専念し、母親が子育て(教育)を担当するという分業の合意ができているのは分かるが、その分業合意はきわめて不適切ではないか。そもそも、核家族のような家族形態で、親族との付き合いも不十分、コミュニティも崩壊している中で、学校に通わせているだけで子どもを健全に育てられると思うのが幻想である。二親そろっていても不十分なのに、母親だけに押し付けていて問題が解決できるはずもない。それでも、何の問題もなく社会に適応していける場合もあるが、やさしくて感受性が強く、プライドの高さだけを両親から受け継いでいる引きこもりの若者は、どこかで孤立して社会に背を向けてしまいがちになる。
引きこもり問題の解決に、父親が奔走しないことを咎められたと思ったお母さんが、必死に夫の弁護をしているのだと思ったのだが、ことはそれほど単純でもなさそうだ。 昔流の夫婦の役割分業なら、妻は家の中を取り仕切る<良妻賢母>が称揚されたかも知れぬ。しかし、今の引きこもり子女の親は40代~50代が中心。少なくとも高度経済成長が一定水準に達した1970年代には成人に達しており、女子高を出てすぐに花嫁修業から結婚生活に入った人などほとんどいない。女性もまたほとんどが社会生活を経験し、自分なりの自己実現を目指した人が多い。成熟社会の到来などと言われたが、現実には社会システムがそれほど成熟していたわけでもなく、結婚して妊娠し産休をとったもののそのまま退職して家にこもるようになった人が多い。
そのうち夫の会社内での立場も、責任のあるものとなり、それなりに年収も高くなり、結局専業主婦の立場に落ち着いてしまった人が多い。子どもたちが大きくなり、1990年ころにはバブルが崩壊、夫の年収も頭打ちになり、生活費の補填のためにパートタイマー就業。そのままで行けば、平穏無事なわけだが、気がつけば子どもが引きこもり。なんとか外に送り出そうとするのだが、何ともならぬ上になぜ引きこもったのかもわからない。こんな架空のストーリーに一般性があるとも思えないのだが、これを読んだ人は驚くほどに『自分のことが書かれている』と思うらしい。引きこもりの特性などについても『うちの子にぴったり当てはまっています』という人がほとんどである。
さて、こうしたお母さんの特性であるが、かなりの知性があり、自己意識も高く、理想も持っている女性であるが、いつの間にか男性中心社会の現実に包囲され、社会的には夫の『従属的存在』に甘んじており、果たされなかった自己実現の夢を子どもの成長への夢に置き換える。教育ママとして何が何でも『お受験』を強要してきたわけでもなく、子どもの個性を尊重しようとしてきた。あえて言えば、わが子のよりよい幸福を願い、最良のアドバイザーになろうとして、常に子どもの疑問や悩みに注意を払ってきただけのことである。
彼女らは1975年±10年の間に学校教育を終了した世代であり、近代主義・合理主義の申し子である。物事には原因があり、結果がある、そう考えている。だから引きこもりになった『原因』を何とか考えようとする。精神に障害があるから、引きこもりになった。これも『合理的思考』の陥りやすい陥穽である。しかし、合理的に考えようとする人なら、医師らが施そうとする薬物治療が、引きこもりを改善するものでないことはすぐにわかる。次に彼女らが考えるのは『教育責任論』である。『自分(たち)の育て方が間違っていたから、わが子が引きこもりになった。』これはなかなかに<魅力的>な考え方である。
何しろ、自分を責めているのだから、ある意味で彼女は物語の主人公であり続けられる。 彼女自身が主人公であるのだから、わが子の引きこもり解決は彼女自身の仕事であり、夫がそのことについて参加しなくても夫を庇い、夫との共同作業の必要性を否定するのも合理的である。彼女は夫の職分を尊重し、彼女自身に分担された責任は彼女自身がまっとうしようとしている。親としての生き様には一見非の打ち所がない。もちろん彼女自身はそのような生き様に自信を持ってきた。だからこそ引きこもり問題で窮地に陥り、逃げ道が見つからない。
引きこもりは病気ではない。多くのお母さんが考えるような過保護・過干渉が原因でもない。ごく普通に育てられた真面目な子どもが思春期や反抗期を過ぎたころ、突然目標を見失って引きこもる。ある意味で、非の打ち所のないお父さん、お母さんだからこそ『子どもからの』としての『反抗期』に突入できない。『反抗期』こそ大人としての自立への第一歩なのだが、親に反抗する動機が与えられていない。高校進学、大学進学は当然、子どもたちが青春期に迎える壁であり、人生のひとつの転機であるが、ここでも親たちは良い親であり続ける。子どもを上手にコントロールして、目標の学校に進ませるのも、万一受験を失敗したとしても、目標に固執させることなく、子どもたちの自主性を尊重し、あるいはそのように納得させた上で、無難な選択に仕向けていく。つまり、子どもたちはどんな苦難や壁にぶっかったとしても、大きなトラブルも、親との衝突も起こさず、反抗しないままに反抗期を通過していく。
そこまでは親たちのプラン通りの『子育て』である。しかし、その成果品としての純粋培養のようで、ひ弱な青年たちを社会は易々と受け入れてくれない。単純に言えば労働力が過剰で、社会や企業は彼らの労働力を必要としていない。ここに到って、彼らは親や学校の先生たちの言いつけに従ってきたこれまでの生き方が「間違い」だと気づくのである。極言すれば『自分は騙されてきた』と自覚し、人間不信や対人恐怖に陥る。友達も拒絶する。親に対する感情は、ここで分岐する。依然として父親や母親だけは自己の保護者として信じ続けるのか、あるいは自分の意思を尊重するふりをしながら、実は親の意思を押し付けてきた張本人が母親だったのではないかと気づくのである。
引きこもりの責任が親にあるとは言わない。しかし、深刻な引きこもり状態にありながら、親の言うことだけは信じているというのも幼稚に過ぎるし、親が自分たちの言動を子どもへの『愛情』のせいにして免罪するのも、明らかな欺瞞である。 自分ばかりか、子どもの人生まで自分を主人公にして考える母親は、そのことに気づかない。あなたが責任をとっても仕方がない。子ども自身が自分の人生の主人公であることを互いに理解することである。
6月18日