NPO法人 ニュースタート事務局関西

直言曲言 第101回 「ストレスと適応」

By , 2004年7月5日 4:55 PM

『引きこもり』問題への取り組みを始めて5年半が経つ。斉藤環氏の『社会的ひきこもり』(PHP新書)が出版される直前から始めた「大学生の不登校を考える会」がきっかけである。それ以前は、ある研究会に参加して『子どもの自己不全』を問題として取り上げ、研究会活動に取り組んでいた。「子どもの自己不全は親の自己不全が原因」と言うのが基本的な研究モチーフであり、『親』つまり『大人』世代が作り上げた現在の『社会システム』が制度疲労を起こし、これに適応できない子ども達が表すさまざまな『適応不全症候群』であると考えていた。この考え方は、基本的に今でも変わらない。

『引きこもり』問題が裾野を広げ、社会的課題になった今『適応不全』の考え方は社会的にも浸透し、引きこもりの親たちもまた『わが子の適応不全』が<原因>との認識を広く持っている。しかし、多くの親は依然として『社会的に適応』できない『わが子』が『異常』ないし『病気』であると一方的に考えており、『適応』すべき『社会』の『規準』とは何なのか、その社会システムの変化を問題視せず、果たして『適応』することが絶対的に『正しい』ことなのかという視点が一向に出てこない。

つまり『社会的適応』というのが<絶対善>と位置づけられており、これに対する『拒絶』や『忌避』、あるいは『適応』が押し付けられることや、『矯正』を強いられることに対する『緊急避難』的な心理的態度(時には心身症的反応)は『社会的ひきこもり』として『治療』を要する『症状』であると捉えられてきたのである。

私は一貫して『引きこもりは病気ではない』と主張しており、前述の斉藤氏なども「ひきこもりは病気ではない」と説明し、「精神障害を第一の原因としない」ことを定義に加えている。しかし、その斉藤氏自体が『社会システム』の問題を棚上げした上で、個人的な精神医学的治療を最重視していて、『適応不全』そのものが病理視され、『治療』の対象と見られ続けているのが一般的である。

私たちニュースタート事務局関西の元へは毎年100名以上の引きこもり当事者や親たちが訪れ、(千葉にあるニュースタート事務局本部へはおそらくその倍以上の人々が訪れ)る。訪問者の約半数は引きこもりの当事者で、彼らは引きこもりを『治療』するためではなく、私たちのさまざまな活動に共感し『参加』するためにやってくる。

しかし、親たちは、少なくとも訪れる時点では『適応障害』を『病気』と考え、その『治療』が必要だと考えている。現在の『社会システム』に適応できていないのは事実であり、あるいは『社会システム』そのものが、引きこもりに限らず多くの若者を排除しようとしている(社会を構成する重要な労働力として若者を受け容れていない)のだから若者は強い疎外感を抱いている。彼らがその疎外感を克服し、前向きに人生を生き直すためには何らかの『治療』が必要なのは事実である。私たちはそれを当事者に対する精神医学的な『治療』だとは考えていず、『適応不全』によって起こされた『対人恐怖』や『人間不信』を克服し(克服する主体はあくまでも当時者自身である)、その人間としての『共生』への自信から、歪んだ『社会システム』を依存や適応の対象としてのみ捉えるのではない、社会への積極的(受動的ではない)態度を身に付けさせようとしている。つまり適応すべきだとされている『社会』こそ治療の対象と考えている。

引きこもりに限らず(『○○性人格障害』や『強迫神経症』あるいはその他多くの『精神障害』と一括されるものの多く)、精神科医によって『適応不全』と診断された結果、『適応』させることを目標とした『治療』が施されるが、多くは投薬による治療で、投薬によって『適応』が改善しないと見なされると、隔離(精神病院への入院等)がなされる。引きこもりは一種の自主的な隔離であり、親による放置はその追認である。

『適応不全症候群』はなぜ起きてしまうのだろうか?引きこもりに限らず、神経症的反応の多くは、ストレスに対する反応として説明できる。人間の神経というものは、それほどタフなものではなく、同時に強いストレスを受けたからといって一瞬のうちに壊れてしまうほど脆弱(ぜいじゃく)なものではない。持続的なストレスに対しては、それを回避するための反応システムがある。ストレスの原因になる外界からの刺激に対して、刺激を遮断するための回避行動を取ることが出来る。強い紫外線による刺激を例に取れば、サングラスを掛けたり、外出を中止したり、日陰に逃げ込むこともそうである。

精神的なストレス(抑圧)に対してはレクリエーション行動を取ったりするのが一般的である。あるいは、そのストレスが抑圧的なものではなく、自分にとって親和的(好き)なものと思い込むことによる回避法もある。受験ストレスも、強制されたものでなく、自分で選び取ったものと思い込むことによって、ある程度ストレスを緩和できる。 テレビゲームなども強いストレスをうけるが、他のストレスからの回避方法として、自分が選び取ったと認識すれば、長時間のストレスに耐えやすくなる。

しかし、ストレスの元になる行動や自分の立場が、他から強制されたもので、その強制を受容できず、また受容する意味や目的が分からない、あるいはまったく理解できないというような場合、逆にストレスはより強いものとなり、耐え難いものとなる。こうしたストレスが長期に持続すると、自ら回避行動が取れなくなり、個としての理性的な判断とは別の次元で神経系による回避行動が発現する。それが緊急避難的な『錯乱』であったり、『妄想』による現実否定である。いわば『これ以上ストレスを我慢すると、あなたは壊れてしまいますよ』という危険信号に対する反射運動のようなものである。『妄想』の固定化による精神病とは区別されなければならない。

しかし、緊急避難といっても、こうした敵対的な刺激(ストレス)が慢性化し、親や周囲の人々がそのストレスの『病理』性に気付かず、ストレスに耐え続けることを強制する場合は、回避行動も慢性化せざるを得ず、不登校もうつ病も引きこもりもまた持続するのであり、そのことを理解しない人々は彼の行動を『社会的不適応』だと決め付ける。

『不登校』や『うつ病』や『引きこもり』は、異なった種類のストレスに対する反応であり、同一視することはできない。しかし、ストレスに対する緊急避難的回避行動である点では同一であり、いわば神経が悲鳴を上げている状態である。この悲鳴を一時的に沈静化させるために精神安定剤などを利用することは咎めないが、精神安定剤がストレスを解消してくれるものでないことは明確に理解しておかなければならない。

親の立場である私たちは、私たち自身が作ってきた『社会』に後から来た青年たちを適応させようとしている。私たちが作った『社会』はそれほど絶対的で、帰依に値する価値を維持しているのだろうか?あくまでもそれを押し付けようとするなら青年達は永遠の拒絶を告げて、別の世界に行ってしまおうとするのではないか?

マッチ擦るつかのまの海に霧深し 身捨つるほどの祖国はありや(寺山修司)

7月5日

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