NPO法人 ニュースタート事務局関西

直言曲言 第92回 「自分さがし」

By , 2004年4月6日 4:22 PM

『引きこもり』というのは,自分さがしに疲れて,自分を探すことを途中で放棄してしまい,自分で自分を探すことに執行猶予(モラトリアム)を与えている期間のことである.『猶予』されているのであって,自分探しを放棄することを許されているのではない.だから『引きこもり』というのは,いずれ必ず,その状態から『脱出』してこなければならない.
『自分さがし』とは何だろう? 人は生まれながらに『自分らしさ』を意識して生きているのではない.顔かたちや体形,声の高さやしゃべり方,人それぞれに『個性』というものがあって,他人とは区別されて識別されるだろう.
しかし,そうした外観的な『個性』と言われるものの大半は,親から受けついだ遺伝子や幼児期の環境や養育された条件によって形成されていて,自分の意志で形成したものではない.そうした外形的な存在をそのまま受け入れて自分の個性としてしまうのでは,人間としての主体性がなさ過ぎる.
人は,一般的に個体としての思考能力が形成されると言われる12歳のころから『自分とは何か?』について考え始める.第2反抗期と言われる14・15歳のころには,親から養育されてきた,いわば与えられた『自分』を拒絶して,自分らしさを形成しようとし始める.いわばパーソナル・アイデンティティ(自己同一性)を探し始めるのである.自己同一性という言葉も,説明するとなるとなかなかに難しいのであるが,簡単に言うと『自分らしさ』,これぞ自分であると識別できる証〔あかし〕のことである.
自分らしさという以上,他の周囲の人との共通性だけでは表現できない,満足できない,納得できない.つまり万人共通の『人間』であるとか,女であるとか男であるとか,日本人であるとか,○○府県の住民であるとか,成績がクラスで何番であるとか,サッカーが得意であるとか…そんなことだけでは他の誰かと明確に識別できる『自己同一性』とは言えないのである.姓名を特定することによっても,自分らしさを表現できない.同姓同名の人もいるだろうし,同姓の人も数多い.第一に父親や母親と(一般的には)姓は同一である.父や母と同じであるなら,自分という存在の同一性証明にはならない.だからこその『反抗(期)』なのである.
結局この反抗期における『自分とは何か』の問いについて,この時点で答えは出ない.この問いのひとつの答え,『自分とは何か』は『これからの生き方によって決まる』ということなのである.そこで『これからの生き方』についての自問が始まる.
この時期はまだ中学生であり『これからの生き方』については,ほとんど外在的に親によってレールが敷かれていて,その上を進まざるを得ない,ということになっている.もちろんこの段階から,そのレールを拒否して不登校になってしまう人もいる.だが,日本では義務教育制度が敷かれているので,不登校で1日も学校に行かなくても,中学校は強制的に卒業させられてしまう.高校に進学すると話は別だ.高校になど行かなくとも,世間は誰も非難できない.ただ親たちだけは,何とかして高校に通わせようとするだろう.その魂胆は明白で,高校を卒業すれば,大学に進学させ,その先は官公庁か良い会社に就職させようとするのである.
ところで,先ほどの『自分らしさ』を探す話であるが,『高校』や『大学』を卒業することが義務付けられているとなると,結局はその先にどんな職業に就くかという選択の問題になる.中には,親が医者であるから医者になることを義務付けられている人もいる.親のお寺を継いで坊主になることを運命付けられている人もいる.それでも,どんな医者になるか,どんな坊主になるかは少なくとも自分で決められるだろう.結局は職業選択を含めて,自分がどんな人生においてどんな社会的な『役割』を果たすのかが『自己同一性』の問題ではないか?
社会的『役割』の選択という自分に対する問いかけは,実は『職業選択』のように素朴な進路選びではない.単なる『職業選択』なら学校の進路指導に委〔ゆだ〕ねても良いし,ハローワークで相談しても良いのだが,社会的役割の選択は自己同一性の選択でもあり,他人に委ねられることではない.余談だが『自分で自分が何であるかを決めたころ』という私のエッセイもそんな若いころの苦悩をつづったものである.
まあしかし,思春期の苦悩である『自分さがし』を突き詰めて考える人もいれば,職業選択の問題に置き換えてブレークスルーしてしまう人もいる.職業選択といっても特殊技能を持っている人や,自由業を選択する人以外は,たいていは『サラリーマン』を選択するのであって,就職する会社の産業種別や自分の職種にこだわらなければ,『職業選択』もそれほど難しいことではないかも知れない.ただし,リストラが横行し,海外に生産拠点を移した会社が多い中で,職業(職種)選択が就職先選びにつながる保証はない.専門学校に行ったり,資格取得などによって自分では職種選択をしたのだが,めぼしい求人先はなく,仕方なくフリーターを選ぶ.これも職業選択の一つと割り切るしかない.
割り切ってしまえばそれでも良いのだが,割り切れない人やプライドの高い人は,もう一度『自分さがし』に戻る.双六(すごろく)で言えば『ふりだしに戻る』というやつで,自分の『自己同一性』,『社会的役割』探しをやらざるを得ない.先ほども言ったように,『社会的役割』探しというのは『職業選択』ほど簡単ではなく,抽象的な思考が必要になる.やがてその思考が混乱し,自分さがしを放棄するのが『引きこもり』というわけである.いわば自分の『人生デザイン』に失敗し,<冬眠>してしまうのである.<冬眠>なのだから,冬が過ぎ,春がやってくればやがて眠い目をこすりながら寝床から抜け出してくる.
引きこもりにはもうひとつのパターンがある.自分を<冬眠>していた動物とも,ましてや『職業選択』や『人生デザイン』の失敗者とも規定せず,あくまでも『自分さがし』のプロセスにある人間だと思い込んでいる人たちである.『自分さがし』そのものは,青春の特権であり,義務でもあるのだから,それ自体は誰からも非難される筋合いではない.大いに悩めばよいし,悩むべきである.ただこの人たちの『自分さがし』には『出口』がない.
『自分』という存在を唯一無二の存在として高めるための精神作業は貴重である.ただその唯一性を,主観の中で確認するだけでは唯我的であり私(エゴ)の独善にしか過ぎない.引きこもりに限らず,現代青年たちの多くが私主義(ミーイズム)に陥るのも,哲学的思考の粉飾の中で,他人の視座を取り入れようとしない,独我的傾向から逃れないのも,蔓延〔まんえん〕する人間不信の結果である.
主観主義と主体性は良く似た言葉だが,意味合いはまったく逆だろう.『自分さがし』を含めて,未解明の命題があれば,主観や直感を含めて『仮説』を設定するのはまったく構わない.しかし,それを検証するのは客観という他人の視座である.他人の視座による承認を受けて,初めて主体性のある行動に移れる.主観で思考を構築するのは良いが,それをまた別の『自分』が否定する.これではどこまで言っても『出口』は見つからない.堂々巡りがいつまでも続くだけである.堂々巡りのように考え続けるのが『哲学』だと思うのはおろかな誤解である.
他者という人間の存在を認めることが引きこもりからの脱出の第一歩である.

(4月6日)

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