直言曲言 第71回 「引きこもりと精神障害」
私は『引きこもりは病気ではない』(2001年.拙著)とわざわざ主張したし,その段階では引きこもりと精神病を混同する精神科医やわが子を精神病扱いする親に対するやや挑戦的な主張であったが,今や引きこもりが精神病と区別されるべきことは世の中で当たり前の認識になったような気がする.それでもこの認識が受け入れられるのは,自宅からの外出が可能で,訪問者(NSP)の説得により人と交流できるようになる『引きこもりがち』だった若者などに限られるようである.
つまり,『引きこもり』には『精神病ではない軽い引きこもり』と『薬や精神科医の世話にならないといけない重篤〔じゅうとく〕な引きこもり』があるという認識である.<軽い>状態と<重篤な>状態があるのは事実であるが,重篤な引きこもりが精神科医の治療によって回復するということはない.回復が困難なケースがあるとすれば,私たちの支援技術が<未熟>であるに過ぎないと考えている.
もちろん訪問による説得活動は『外出ができない』『親とのコミュニケーションもできない』ような重篤で<完全な引きこもり>に対しても有効であり,何人もの脱出成功事例があるのだが,その成功が100%ではないことも事実である.頑〔かたく〕なに訪問や対話を拒否し,親にさえ心を開かず,そのくせ親の『養育と庇護』に完全に依存している引きこもりも確かにいるのである.
私たちがこうした<完全引きこもり>の脱出支援に成功しない限り,親達は『やはりうちの子は精神病なのだろうか』という疑問に回帰してしまう.
ここでも<精神病>という言葉と<精神障害>という言葉を使い分けている.精神病というのは『統合失調症』(旧『分裂病』)など限られた<精神障害>に対して使われる概念であり,『鬱病』や『神経症』やその他の一時的な神経障害のことは明確に<精神病>と区別されている.
あえて<精神病>と<精神障害>の区分について述べたのは,一般にはこうした区分が明確にされていず,<精神病>という概念の範疇〔はんちゅう〕が拡大解釈される傾向にあるからで,『引きこもり』についても安易に『精神病』と混同されることに警鐘を鳴らしたいのである.
しかし,このように書くと,『引きこもり』や『神経症』は回復可能だが,『統合失調症』などは重篤な<精神病>であるから治療や回復が困難である,と云っているように受け止められる方がいるかもしれない.これも違う.
私の知るある精神科医さんの患者は『統合失調症』の方が1/3,『鬱病』の方が1/3,その他『神経症』やさまざまな症状の方が残り1/3だそうである.
引きこもりであるかどうかは別として,『神経症やさまざまな症状の方』の中には,引きこもりを含む<健康>な人が含まれているのである.精神科や神経科でなくとも,少し身体の変調を感じて病院へ行っても『どこも悪くありませんよ.少し疲れているだけです』などといわれた経験はないだろうか?精神科医といっても,特殊な病気を扱っているのではなく,神経の一時的な変調を含む多くの患者を扱っている.その中で『統合失調症』というのは<精神病>に分類され,少し長期的な治療方針を立てて取り組まなければならないと考えられているだけである.
ところでこの<精神病>というものの捉え方について,精神科医の中でも随分と判断の仕方が異なる.精神病を脳の器質的欠陥や遺伝子異常,もともと反社会的な人格異常者が発病すると考えるのは,古典的な精神医学の流れである.
米国の精神分析学者カール・ラトナーは精神病の患者を『社会性の相互関係にある思考,意識が方向性を失う.社会的非規定性が奪われるので,心理は自由に浮動し,コントロール不可能になり,逆に浮動する心理的要素の断片に圧倒される.個人は自分のコミュニケートに自信を失い,殻に閉じこもる』と説明している.つまり,コミュニケーションや他者との交流の断絶により,現実の社会に対する信頼の欠如が<精神病>を生み出していると言っている.
ここで精神病の捉え方が前者の『器質的欠陥や遺伝子』説と,後者の『社会信頼の欠如』説で180度と言ってよいほどの違いを見せる.適切な比喩になるかどうか心許〔こころもと〕ない点はあるが,『性悪説』と『性善説』ほどの違いがある.前者の医師は,『不治の病』と言ったり『一生,薬を飲み続けること』を指示したりし,後者は『社会性の回復』による治癒の可能性を示す.
これほど極端な差があるのに,世間では両者を同じように『精神科医』と呼ぶ.もっとも医学の世界では『切って治す』(外科手術)か『切らずに治す』(内科的治療)など医者により方法はさまざまであり,医者同士が共存することが優先されており,何が正しいのかは二の次になっているようである.
ところで,『社会性の破壊』が精神病を発病させるとしたら,『社会的引きこもり』もまたその初期症状と言えなくはない.そうすれば,逆に『統合失調症』もまた『社会的引きこもり』の境界を突破した病状と捉えることができてしまう.ここで私としてはかなり困難なディレンマに陥る.即ち『引きこもりは病気ではない』としながら,明確にと規定されている『統合失調症』と『社会的引きこもり』は同一の病因を持つ連続的な症状に過ぎないことになる.これを合理的に説明する選択肢は次の3通りである.
①『社会的引きこもり』に対しては『社会性の破壊』の因子が働いているが,未だ社会性は破壊されているのではなく,社会性が破壊される前駆的段階である.
②『社会性の破壊』は両者に共通するが,自己の心理のコントロール可能性において『統合失調症』の場合,一定のを超えることによって可逆的な回帰がになっている.
③『社会的引きこもり』が病気でないのと同じように(同じ理由で),『統合失調症』も病気ではない.
私はこのうち③の可能性を最も信じたいのだが,『統合失調症』の場合現実の社会生活に困難が生じ,医学的治療が必要であることを現状では認めざるを得ない.私たちは『病気ではない』引きこもりと同様に,『病気である』とされる『統合失調症』と診断されている若者たちとも接触し,成果をあげつつある.精神科医による治療の成果が上がらないことに不信感を持った親たちが私たちの方法に期待を持って依頼に来られるからである.ただ,私たちも未だ手探りであり,確実に自信を持って引き受けられる段階ではない.
②については『閾値』のようなものは確かに存在するであろうが,それがどのような数値であり,どこからが『統合失調症』と定義できるのか明確でない.
だとすると説明可能な仮説は①しか残らない.
『統合失調症』が社会性を破壊されて『殻に閉じこもる』のであり『社会への信頼性』を失っているとすれば,『社会的引きこもり』には明確にこれとの相違点が存在する.つまり『社会的引きこもり』は『現実の社会への信頼性』を失っていないのである.
それどころか現実的に『裏切られている』『社会』に対して『恋慕』ともいえるような『信頼性』を維持しようとしている.だからこそ苦しいのであり,葛藤から抜け出せないのである.現実に学校生活や職業生活からは疎外されており,自宅から出ることすら出来ない引きこもりもいる.しかし,彼らの多くは『学校』や『株式会社』を否定することが出来ず,むしろ会うことの出来ない恋人のように恋慕っているのである.
歪んでしまった『社会』への『恋慕の情』を断ち切らせる必要がある.ただし『社会』の側から切断されては『社会性の破壊』となり,『統合失調症』と同じ道を歩む.彼らには別の新しい『恋愛』の可能性を示し,確信させてあげる必要がある.何しろは親も学校も会社も,ゆがんだ『社会の側』にいる.親がそれを自覚しない限り,親との訣別〔けつべつ〕もひとつのステップである.
『統合失調症』の人にしても同じである.『裏切られた』という潜在意識が,自分の心をコントロール不能にしている.あちら側が正常で,美しく,あるべき世界であると思い込んでいる.こちら側にも,否,こちら側にこそコミュニケート可能で,正しく,美しい生活があることを教えてあげればよいのである.
(5月6日)