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直言曲言 第79回 「時代の終焉」

By , 2003年9月29日 3:50 PM

『社会的引きこもり』についてはさまざまな捉え方がある.よく知られているように精神科医の斉藤環による定義『二十代後半までに問題化し,6ヶ月以上,自宅に引きこもって社会参加しない状態が持続しており,他の精神障害がその第一の原因とは考えにくいもの』(『社会的引きこもり』PHP新書)が一般的であり,最近では厚生労働省などもこの定義を援用〔えんよう〕しているようである.
私は斉藤の定義のうち『自宅に引きこもって』の箇所は必ずしも必要条件ではないことを指摘し,逆に『友達がいない』ことを必要条件として付け加えている.この定義への疑義として『6ヶ月以上』という点を指摘する人もいるが,これはこの定義の時点での斉藤の蓋然的〔がいぜんてき〕な認識であり,たとえこれより短期間の人にその兆候〔ちょうこう〕があったとしても,それは引きこもりに向かうプロセスであることも多く,この定義の誤謬〔ごびゅう〕とは言いがたい.逆にこの6ヶ月の定義が短いとか,期間を特定することがおかしいという議論があっても,本質的な定義批判にはなりえていないと思う.

また『他の精神障害がその第一の原因と考えにくいもの』という点は,この定義の『秀逸』性を示すものだと私は考えている.私は『引きこもりは病気ではない』と主張しており,特に精神分裂症(統合失調症)と引きこもりの混同に警鐘を鳴らしているつもりである.斉藤の定義は『第一の原因』ではないことを指摘している点が秀逸なのである.引きこもりは,長期に及ぶ対人関係の拒絶の結果,さまざまな神経症を併発することが知られている.対人恐怖や強迫症状がそれであり,その点で結果的に精神科医の診察を受けるに至ることも多い.
私は引きこもりの若者が精神科医による診察を受けたり,心理療法士によるカウンセリングを受けることに対して極めて懐疑的である.否,むしろそれに否定的であり,引きこもりを長期化させたり,悪化させる原因になると主張している.斉藤の『精神障害を第一の原因』としない定義は,他に『第一の原因』が存在することを示唆〔しさ〕している.斉藤は『単なる個人の病理』ではないことを指摘し『家族・社会』のシステムの崩壊が背景にあることを『コミュニケーションの欠如』として分析するが,家族や社会の『病理』そのものの指摘にまで至っていないのが,彼の限界である.

残念ながら,斉藤のこの限界と精神科医としての職務意識が『社会的引きこもり』を医療の治療対象にとどまらせ,その結果多くの精神科医が『第一の原因』ではない精神障害を治療すべく薬物治療など見当はずれの治療を施〔ほどこ〕すに至っているのである.カウンセリングにいたっては,精神障害と,それより曖昧〔あいまい〕な概念でしかない『心の傷』を,ほとんど意識的に混同し『心の傷』を癒〔いや〕せば,引きこもりが治るという,ほとんど悲喜劇のような仮説を振り回して,引きこもりの人の心情を惑乱させているだけなのである.

斉藤の分析によって『個人の病理』ではなく『家族』や『社会』の病理であることは,ほとんど突き止められているにも拘〔かか〕わらず,引きこもりの真の原因は,闇の中に投げ返されてしまっているのである.それは,精神医学や臨床心理学といったエセ自然科学が独走した結果であり,ある意味での斉藤の仕事の中途半端さの悪影響でもある.
と言っても,社会科学や人文科学がこの引きこもりの解明について一定の役割を果たしたともいえない.政治学も,経済学も,社会学もあるいは哲学も,この今や現代日本の青年に特有な病理状態について,無言を貫いており,よそ事のような冷淡さである.つまり,彼らもある種『精神病理』の領域の問題として,無関係を主張し,それぞれの学問領域単独の問題として,その病理を解明することを断念してしまっていると言える.

『引きこもり』は簡単に言えば『思春期』前後に『自分のあるべき未来像』を考え始める頃に陥りやすいである.であるからと言って『臨床心理士』や『心理学者』が治療すれば『治る』と考えるのが第一の誤謬である.お化け屋敷に入った人が『恐怖』感を味わったからと言って臨床心理士の治療が必要なのか?その恐怖感が社会的に害悪だとすれば,お化け屋敷を解体すればよいだけである.その『お化け』の正体を,白日に晒〔さら〕すことによって恐怖が取り除かれるという単純な事実を,現代の『知』の構造は見落としていく.

資本主義市場経済の競争社会では,国家も企業も競争力を高めるために人材の育成とリクルートシステムを構築する.学歴社会とはその一つの完成形態である.あるいはそれは資本主義以前の国家権力の強大化にとっても同じであり,中国や朝鮮の科挙システムやそれに学んだ戦前日本の高等文官試験制度なども同じである.高度経済成長の時代においても,こうした人材登用のシステムが受験競争や学歴主義を激化させたのは明らかである.学歴競争を中心とした人生前半の設計思想は,ほぼ二世代にわたり,あるいは明治の学制以降で言っても100年の『立身出世』主義は,短いようで長い期間に,教育の目的や制度的原理にすらなってしまっていた.

1991年に崩壊を迎えるバブル経済は,既に『ものづくり』の先進工業国としての役割を終えた日本経済が最後の悪足掻〔わるあが〕きとして,地価高騰や株式高騰の戦術的延命策によって経済の拡大を図ったのだが,マネタリズム先進国としての米国を先頭とする金融デリバリーシステムの報復によって一挙に崩壊に突き進んだ.グローバル経済,即ち資本の国際化は,国境を自由に飛び回る態様により,国内産業の空洞化に翻弄〔ほんろう〕し,リストラの横行,企業の倒産・合併などの再編,失業率の記録的増大などをもたらせた.
学歴社会の倫理的問題点の指摘はいざ知らず,そもそも高学歴人材への貪欲〔どんよく〕な求人欲求が生み出した受験競争と就業システムが,音を立てて崩れていくのは自明の理であった.日本経済の延命策は,赤字国債による公共事業の乱発と,高い貯蓄率を取り崩しての消費拡大にしか光明が見出せない.求人は国内消費に依存するサービス産業に極端にシフトし,若者はマクドナルドや吉野家やピザハット,それにコンビニの深夜勤務に押しかけ,フリーターの増大に拍車が掛かる.

海外に製造拠点を移した大企業はまだしも,国内市場にしがみつく大企業はさまざまな不祥事に世の批判を浴びながら,かつての華やかな姿を消していく.今や,大企業は若者達の未来を托すに足りる就職先ではなく,せいぜいが哀れみの眼で見られる氷河期のマンモスの断末魔の様相である.

それでも尚,就職予備校としての『大学』やその準備過程としての下位の学校システムが機能していけるだろうか?出口のない競争システムが若者達を叱咤〔しった〕激励し,賢明な若者ほどいち早く,この競争から降りてしまおうとしているのが『社会的引きこもり』でないのか?
かつて若者達が怒れる若者達であった頃,若者達はこうした不条理に率直な怒りをぶつけた.今,ある意味で成熟し,ある意味で『去勢』された若者は,静かに身の不幸を嘆いている.親たちの世代が辛うじて享受した学歴主義の『栄光』,その残骸だけを押し付けられて,未曾有の豊かさの中で未来を夢見る権利も奪われたその姿は文字通り『去勢』された競走馬のごとく,物狂おしくいななくしかないのか? あたかも,自分達が受給しうる見通しもなく,年金などの社会保険の高額負担に耐えている人々のように.

一つの時代が明らかに終焉の時を迎えている.親たちよ,あなた方は被害者ではない.明らかに時代の共犯者なのだ.
(9月29日)

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