直言曲言 第36回 「萎縮する脳髄」
いつものことながら最初にお断りしておく.私は大脳生理学の専門家でないことは言うまでもなく,その種の本を読んだこともないし,勉強したこともない.右脳がどうとか,左脳がどうとかいうことも知らないし『脳内革命』などというベストセラーがあったが読んでもいない.
しかし,引きこもりの相談を受けたり,当事者に会ったりしていると,どうも脳が硬化しておられるのではないかと思うことがある.これも,脳軟化症という病気があるらしいが,そのこととはまったく関係のない,私の漠然とした印象を表現したに過ぎない.脳みそが硬くなっているとか,頭蓋骨が化石化しているというような生理学的ないし物理的実態を言おうとしているのではない.
いわゆる<柔軟な思考法>をなくしているといった程度の意味である.
まず強く感じるのは,思考が堂々廻りしている方が多いということである.<循環思考>.こんな言葉があるかどうか知らないが,循環論法の否定的な意味であり,思考が悪循環に陥っていると考えてもらえば良い.つまり,あることができないのは別のあることのせいであると考え,順繰りにできない原因を別の原因に求める.ついには最初のあることができないことが,最後のあることのできない原因にされる.
これでは,すべてのことができない原因が連鎖していて問題解決は永遠におぼつかない.
これは『八方塞(ふさ)がり』といわれる状況であり,どこにも逃げ道がない.これは何も『引きこもり』に限ったことではなく,思考がスランプに陥ったときなど,誰にでも起きることである.気分転換をして,考え直せば,案外簡単に解決できる.つまり,どこか1箇所だけ,鎖の弱いところを断ち切れば良いのである.
正常な判断力が機能している人ならば,自分がこのような思考の隘路に陥っていること自体に気付くものであるが,引きこもりの人はなかなか気付かない.
それどころか,引きこもりの人のご両親なども,同じように堂々めぐりの思考に嵌っており,一種の共依存関係のように互いの堂々めぐりを加速しあっている.これは,脳髄の萎縮により思考の柔軟性を失っているのである.
しかし,他人からの指摘により案外簡単に抜け出せることもある.
萎縮する脳髄の2番目の兆候は観念の固定化である.カタカナ語で言えばコンセプトである.<認識>と訳しても良いし,<概念>と訳してもよかろう.コンセプチュアルな認識はものごとを抽象的に認識し,思考のスピードアップを図るときには役に立つ.ある言葉を想定するとき,それを概念的に想起することに慣れると,論理の図式的な展開が容易になる.コンピュータのプログラムなども,まずはこうした図式的な論理展開によって構築される.
概念を固定化すれば類型的な思考が可能になり,細部の差異は後で数値を代入することで,演算が容易になる.ところがこの概念の固定化により,思考法が弾力性を失うという難点がある.ステロ(ステレオ)タイプという類型的思考のことである.
引きこもりで良く見られるのは<家族>,<父親>,<母親>,<人間>,<友達>,<他人>,<学ぶ>,<働く>などの概念が固定化されている.
例えば<家族>であるが,<家族>は『仲良くなければならない』などは良いとして,『唯一無二の共同体』であると考えてみたり,『他人とは相容れない存在』としてしまう点である.
<家族>の形態は人類の歴史的な営みを見ても,さまざまな形態があったはずである.つい数十年前までは農村的な大家族が主流であり,現在の核家族の形態など,都市社会や工業社会の中で生まれた一つの家族形態に過ぎない.確かに封建的で家父長主義であった大家族よりも,男女同権で民主的な核家族がより進歩的な家族形態であるとの考え方も理解できないではない.
そのために,排他的な家族観が定着し,他人を排除したり,コミュニティでさえ拒否する中で,家族の孤立化が進み,さらに人間の孤立化が進んでいる.家族や夫婦が別居したり,逆に大家族以上に一族が集住するような家族形態も歴史的にはあったし,今も地球上のどこかにはそんな家族も存在する.家屋の構造や,労働のシステムによってはそんな家族形態の方が合理的であったり,快適である場合もあろう.今の核家族があるべき家族像であるとの考え方は幻想である.<学校>で学び良い成績を上げて,一流の<株式会社>で働くのが優れた人生の過ごし方であると考えるのも<学ぶ>ことや<働く>ことなどの概念が固定化されているのではないか.
概念の固定化(脳髄萎縮)を避けるためには,引きこもり当事者だけでなく,ときどき自分の考え方や生き方を変えてみる必要がある.例えば10年に一度くらいは転職してみるというのも一つの方法である.職業を変えるのが難しければ,職場を変えるというのもある.
それも難しければ,引越しでも良いし,離婚でも良いし,趣味を変えても良い.思想信条などというものを一生持ちつづけるのは,多分良くないことであると思う.
脳髄萎縮の3番目の現象は,人を信じられなくなり,人を愛することができなくなると言う兆候である.
余談だが,人は愛というものを心で感じるという. のマークで表したりするのも心臓を象形したものであろう.あまり理論的根拠はないが,私は愛というものは心臓ではなく脳で感じるものだと思う.確かに,愛を感じるとき,心臓の鼓動が早くなったりするが,これは脳が興奮を伝えて心臓の動機が早くなるのである.人によってはは主に生殖器で感じると言う人もいるかもしれない.それはそれで良いだろう.
脳が萎縮してくるとを感じる能力が低下してくるらしい.実は,を感じる前に人間を信じる能力が低下しているらしい.を感じる能力は人間に限らず,どんな生物にもあると思うが,その前提は相手が自分にとっての敵ではなく,親愛な仲間であると感知する能力に関係していると思う.
引きこもりになると,多くは対人恐怖という一種の神経症状態になるのだが,これは他人という存在がすべて自分に敵対し,自分に危害を加える存在だと錯覚するのである.この場合も,最初のうちは家族だけは例外だと考える.特に自分を産んでくれた母親は例外で,母親のだけは認めている.父親の方はといえば,自分に対する敵対者である<社会>を象徴する人物であり,引きこもりからの脱出のプレッシャーを掛けて来るので,信頼できない人間の一人になっている.もちろん,人により母親と父親の立場が逆転しているケースもある.
引きこもりが長期化すると,この唯一の信頼できる存在であった母親も敵対者に転じる場合がある.母親が引きこもりを容認せず,本人に脱出のプレッシャーを掛けるようになれば当然の様に,敵対的な存在に変わってしまうのである.実は,この味方から敵への変身こそ母親が遂げなければならない<変化>なのである. こうしてすべての人間が敵対する,信頼できない人間になってしまうと他人のを感じるのは難しい.手を差し伸べようとしても,その手が自分の首を締めようとしているのではないかと考えてしまう.
ここまで至ると,実はかなり重症であると言わざるを得ないのだが,投げ出してしまってはいけない.
いや,実は親としてこれを救おうとするのは投げださなければいけない.こうなってからも,母親の多くは自分だけは我が子の味方であると主張してを押しつける.これが最悪である.引きこもり本人は,誰も他人を信じられず,愛せなくなっているのに,母親だけが<無償の>を提供しつづける.辛うじて,引きこもりに留まれる原動力を提供しているのである.
人は人を信じずに生きていくことはできない.人の愛なしで生きていくことはできない.
親が不毛で一方的な愛を押しつけるのを止めれば,やがて人は自ら愛を求めて出てこざるをえないのである.萎縮して硬くなっていた脳髄もやがて柔軟性を取り戻す.
(2月12日)