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直言曲言 第65回 「引きこもりと『家族』―シネマ塾入賞作に見る引きこもりのブレイクスルー―」

By , 2002年11月21日 6:00 PM

 大阪シネマ塾のドキュメンタリー作品を見て,引きこもりと『家族』の問題を改めて考えさせられた.コンテストはご存知だと思うが,ニュースタート事務局関西の活動を題材にした『カナコ』が塾長賞,同じくニュースタート事務局(千葉)で取材した『心をひらいて』と,引きこもり女性と父親の葛藤を描いた『レター』が奨励賞を受けられた.
  いずれも主人公のキャラクターが映画の完成度を支えているが,そのキャラクターの魅力を惹きだしたスタッフの力量と努力には敬意を表する.

 いずれにしても,私の役割は映画評を書くことではない.原一男塾長が『家族』をテーマにしたドキュメントを描くように指示を出し,はからずも優秀作3作品が引きこもり問題を扱い,うち2作は若い女性と父親や家族との葛藤〔かっとう〕を扱っている.『家族』の問題がこれほどにも,あるいはこれまで私が問題にしてきたのとは別の視点で,あるいは私の想像を超える苛烈さで引きこもり問題の背景をなしている.そのことを考え直すのは私の役割のひとつと考えた.

 私自身,家族の問題は引きこもりの出発点のひとつであると認識してきた.しかし,これまでに何度も論及してきたように,『引きこもりは<社会病理>の反映』であり,家族はそれを写す鏡であると考え,『家族』そのものは副次的な問題であると考えてきたのが正直なところである.
  『自閉する家族』,『お母さんそこどいて』,『家族ことばと会社ことば』,『親と子』,そして『家出の話』などと家族問題を書き続けてきたし,決して『家族』問題を軽視してきたのではない私の思考の系譜もある.
  しかし,今回の『カナコ』と『レター』の2作品に共通して見られた当事者による『父親憎悪』の激しさに私は衝撃を感じざるを得なかった.

 引きこもり当事者の『父親憎悪』自体が<不当>であると言うのではない.今回の2作品ではいずれも多感な若い女性を主人公にしており,その『憎悪』が増幅されすぎたきらいはあるが,女性の引きこもりにはこうした傾向が多く見られることは事実である.もちろん男性にもしばしば認められる傾向であり,女性特有の感情とは思えない.
  私はこうした『父親憎悪』をこれまで,当事者に対する社会からの『上昇志向』圧力の代理人としての父親に対する<反発>だと考えてきた.従って,私は『父親』という存在に対してある種の<同情>を禁じ得なかったのを告白しておく.当然ながら仮に親に『引きこもり』の責任があるとすれば,夫婦・男女に等しい責任がある.
  ところが母親の場合,原因の責任論はともかくとして,引きこもってしまった当事者に対しては,庇護・擁護の立場に立つケースが多く,相変わらず父親は社会的圧力の代弁者であり,子どもからは沈黙され,憎悪される立場である.  

 私の観点から言えば,父親を憎んでも,あるいは父親を拒絶したり,遠ざけたりすることは本質的な引きこもりからの脱出にはつながらないと考えてきた.同時にそれは父親との和解が問題解決につながるのではないことをも意味する.
  むしろ,自分自身の社会参加を阻〔はば〕んでいるのは『父親を通じて』押し付けられている歪〔ゆが〕んだ社会システムであり,その認識と克服こそが課題であると考えたのである.引きこもり問題の解決は『犯人(直接的な加害者,多くは父母であったり,いじめの加害者)探し』などではなく,自分自身の人間不信や対人恐怖,あるいは自己肯定の道筋の自覚だと考えてきた.

 ところが今回の2作品の主人公はいずれも,自らの人間不信,あるいは自己否定の根源だと思われる父親ないしは家族に迫ることにより,引きこもりからのブレイクスルーを目指した.『カナコ』に関しては,そのプロセスで『家族を変えようと思っても無理だ,時間もかかるし,自分の人生をそのために無駄にしたくない』という趣旨のセリフもあり,最初は主人公自身が父親や兄との対峙〔たいじ〕について消極的であったことが窺〔うかが〕わせられる.『レター』の方は主人公自身がスタッフの一員であり,最初からそのように企画されたが『カナコ』は映画の完成を目指したスタッフによって,主人公が励まされ,そうした道を選択していくのが見て取れる.

 2つの作品は奇〔く〕しくも同じテーマを選び,しかも主人公女性の引きこもりブレイクスルーを同様の方法で実現させた.しかも映画としての完成度を保証したのも,主人公女性がラストシーンで見せる美しい笑顔であり,それは父親ないしは家族との『和解』を観客に了解させるのに十分なすばらしい笑顔であったことは認めざるを得ない.

 しかし,私は家族との和解と,引きこもり問題の解決は別物であると主張せざるを得ない.夫婦の不仲やより母親の立場に立った娘の父親への憎悪,幼児のときの虐待から父親の愛を疑った娘.そうした娘たちが,父親の苦悩を共有したり,愛憎とは裏腹な行為をすることもあるという人間の真実に迫り得たのだとしたら,映画はそれ自体として『成功』であり,お二人の主人公にも素直に『おめでとう』の祝福を差し上げたいし,事実私自身祝福の言葉を伝えたつもりである.

 しかし,引きこもり問題は家族との和解で解決するか?「犯人」であった父親の謝罪や,父親との相互理解で解決するか?映画の成功に水をさすつもりでないことを理解いただきたいが,このことについては断固として『否』であることを明言しておく.
  もし百歩譲って,お二人がこのことを契機として元気な社会参加が実現するとしたら,それは喜ばしいことであり,『実はあなた方は引きこもりではなかった』と付け加えさせていただく.映画は『引きこもり』の解決を伝えようとしたのではなく,若い女性の『家族』との再会を描いて成功したのだと思う.

 企業戦士としての父親が,子育てを母親に押し付けて『引きこもり』問題を理解しないのは現代的な課題である.しかし,引きこもり問題の本質がそこにあるのではない.暴力的で威圧的な『父親』はいつの時代にもいたし,夫婦の不仲が離婚につながり結果的に子どもを不幸にしてしまうケースも古今東西稀〔まれ〕ではない.
  問題は家族の幸福なのか?むしろ家族内が仲良くしていようが,家族が破綻していようが,いずれはそこから独立していかねばならない若者たちが,社会に出てある種の役割や,出番が用意されていないことにある.現代社会からの疎外〔そがい〕,あるいは現代社会の拒絶.それは家族への回帰によって解決されるのではなく,むしろ家族を開いて『社会』を受け入れ,あるいは『社会』に斬り込むことによって実現されるしかない.

 映画はある意味で『引きこもり』の断面を見事に描いて見せた.今後この引きこもりの三部作が人々の引きこもりに対する理解の普及に果たす役割も少なくないだろう.それだけに私は敢えてコメントさせていただいておく.私たちは『家族を開く』ことを主張している.家族への回帰,家族の愛情の確認と引きこもり問題の解決を混同してはならない.
(11月21日)

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