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直言曲言 第59回 「拒絶・怒りから恨みへ」

By , 2002年9月4日 5:52 PM

 人間は『十人十色』であり,『千差万別』である.少なくも,人間と出会ったとき『十把〔じっぱ〕ひと絡〔から〕げ』にしたり,『五十歩百歩』と多寡〔たか〕を括〔くく〕って同一視してしまうよりも,一人一人の個人差を認め,その差異にこそ相手の人間性を認める方が,誠実な態度である.ところが,私はこの数年間,人々の差異性よりも同一性を重視して,ある種の『見極め』をするように心がけてきた.『社会的引きこもり』であるかないかの『見極め』である.

 もちろん,私にとって『社会的引きこもり』についての私自身の定義に当てはまる条件が幾つかあり,その条件に当てはまるかどうか,次々に項目をチェックして行き『見極め』ようとするのである.たいていは,その『診断項目』を持参するのは本人ではなく,片親か両親か,ときには兄・姉,伯父・叔母などである.だから,その持参人自身の判断基準で本人が『如何〔いか〕に尋常〔じんじょう〕でないか』を訴えようとするケースが多い.普通は,『高校に入学したのに1日しか登校せずに家でぶらぶらしている』とか,『大学を卒業したのに就職せず,アルバイトにも行かない』といったものであり,それ自体確かに≪尋常≫ではないかも知れないが,≪異常≫と決めつけることもできない.『父親と口を聞かない』『家族と一緒に食事をしない』となると,私の『判断基準』はかなり『引きこもり』の方に傾くが,それでも『引きこもり』と決めつけるには幾つかの関門がある.

 『社会的引きこもり』の定義として有名なものには,精神科医斎藤環氏が著書『社会的引きこもり』で行なったものがあり,私自身何度も引用させていただいている.また,当時の斎藤氏の定義に不足していると思われる条件も付加え『引きこもりは病気ではない』(NPO法人ニュースタート事務局・関西発行)で発表させていただいている.それ以外にも『社会的引きこもり』の若者や家族環境の中で共通する要因を幾つも挙げ,主要な共通点と副次的な共通点の幾つが共有される場合に,『社会的引きこもり』として対応するようにしている.

 しかし,『引きこもり』ではないかと両親などから持ちこまれるケースにも,一筋縄〔ひとすじなわ〕では行きにくい難解なケースもある.まず私どものもとを訪ねられる前に,何度も精神科医やカウンセラーの門を叩かれ,何年も『治療』を受けてこられたり,幾つかの『病名』を付けられてこられたりしている例がある.いわく『分裂病』『鬱病』『不安神経症』『○○性人格障害』『AC(アダルトチルドレン)』『AS(アスベルガー症候群)』などである.中にはこうした医療機関ではなく,親類の勧めで母親が『祈祷師〔きとうし〕』などの怪しげな所へ行き『先祖の悪霊が憑〔つ〕いている』などと言うのもある.また,薬物依存症やその他の障害の後遺症である場合もある.
  精神科医であろうと祈祷師であろうと,その診断を受けて問題が解決したのならそれで良い.解決していないから私どもの所にこられるのである.そんなときは『分裂病』であろうと『鬱病』であろうと『悪霊憑き』であろうと,その診断そのものを疑ってみることにしている.

 『分裂病』『鬱病』あるいは『悪霊憑き』にも,それぞれの疾病〔しっぺい〕概念固有の≪症状≫がある.しかし,固有の≪症状≫なるものは,たいていは他の病気にも共通しており,病気ではないと私が主張する『社会的引きこもり』にも共通している部分もある.
  逆に,『社会的引きこもり』の定義の中で重要な幾つかの点に該当するか否かをチェックする.もし該当するのなら,私どもなりの『問題解決プログラム』を提示することにしている.私たちは,医療行為と誤認されるような薬事療法は行なわないし,苦痛に耐えているひとを前に怪しげな祈祷を行うこともない.むしろ,投薬や祈祷で治癒しなかった相手に,至極真っ当な『人付き合い』を勧めるだけである.また,不確実な診断で下された病名が真実であろうとなかろうと,私たちの『問題解決プログラム』によって症状が寛快するケースがあるからである.

 逆に『社会的引きこもり』の定義から外〔はず〕れる人で,これまで医療機関等による診断を受けてこられなかった人には,一度『医療機関での診断』を受けて見るように勧める場合もある.列挙したような疾病概念に当てはまり,それなりの治療法が確立されているケースもあるからである.

 いずれにしても『社会的引きこもり』と鬱病その他の疾病概念とは似て非なるものではなく,社会環境ストレスによる適応不全や,自己充実感の欠損状態,神経障害(disorder)を指すという意味では共通である.それを神経生理学的な改善を目指すのか,社会環境ストレスを取り除く方向で改善に取り組むのかの違いである.

 こうした社会環境ストレスは,ある限度(閾値〔いきち〕)を越えると,まず『拒絶』という反応を示すことになる.『拒絶』は社会環境に適応できない自己不信を隠蔽〔いんぺい〕するための,緊急避難的行為である.拒絶は『環境』『社会』に向けられるのだが,若年層の場合,まだ社会的接点がなく,家族の陰に隠れることによって,間接的に『環境』『社会』を拒絶するスタイルを取る.これが『社会的引きこもり』といわれる現象である.普通はこの状態のまま長い時間が経過することになる.家族との関係は精神的にも日常的にも経済的にも強い依存関係にある.

 家族がこの状態から離脱させようとして,就学・就労などについて強い圧力を掛けると,この依存関係のまま家族に対する反発が強まる.家族に対して『俺がこうなった(引きこもった)のはお前たちのせいだ!』などと,拒絶や怒りの矛先〔ほこさき〕が社会環境から,家族そのものに向けられる.もちろん,この怒りは社会参加できない自分自身の不甲斐〔ふがい〕なさを家族に転嫁〔てんか〕しているのだから,いわば正常な『社会的引きこもり』の延長線上にある.家族に対する『甘えの構造』であり,父親と母親の関係の不充分性,つまりは父親が企業社会にどっぷり浸〔つ〕かっていて,母親が子育てに生き甲斐を見つけようとしているなど,家族システムの不健全性を巧妙に衝〔つ〕くことによって,自らの引きこもりを正当化しようとする行為である.

 父親と母親の夫婦関係の亀裂はむしろ,引きこもりの子どもの立場からすれば,ある種の≪救い≫であるのかもも知れない.この場合,子どもは往々にして父親を敵視し,母親にはますます依存するとともに,母親を共依存関係に巻き込み泥沼化しつつも,安定した引きこもり状態を継続できるのである.

 父親と母親,つまり夫婦が一致して我が子の引きこもりを『非難』したりする場合,引きこもりの若者は安定した引きこもり先としての『家庭』(敵と味方)を持てないことになる.このとき『社会的引きこもり』は,未成熟な若者の緊急避難としての社会参加拒絶の閾値を超えて,コントロール不能な障害(disorder)の状態に陥る.このとき,彼の心性は不定形な「怒り」を超えて絶望的な「恨み」の領域に越境する.

 引きこもり過程の若者の心性を肯定するのではないが,「怒り」の対象は,愛の対象の敵対矛盾であり,私たちの知見では往々にして,それはあるときに父親であるが,あるとき母親に裏切られたりすると,愛や依存の対象は簡単に父親に転換されたりする.しかし,父親や母親がそろって裏切ったり,仮想敵としての父親がいない場合,母親も依存傾注先になれず,「恨み」だけが彼を支配することになる.引きこもり過程の延長上の「恨み」は,親に対する時に滑稽な『報復行為』として見られることがある.不必要で高価な物品の購入要求から室内脱糞や入浴拒否,浴室閉じこもりなど,当事者である親には不可解だが,第三者から見ればそれを許容している親の滑稽さばかりが目に付く.

 この時点が『引きこもり』改善可能性の最終局面であろう.この地点で『引きこもり』としての解決を放棄して親が子を『異常者』として社会的に放棄してしまうなら,彼の「恨み」は方向性を失って,社会そのものに向かわざるを得なくなる.
(9月4日)

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