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直言曲言 第55回 「時代と世代」

By , 2002年7月20日 5:47 PM

 昔から,『世代論』というのと『世代論批判』というのがあって,二つの論者の意見はかみ合わないことが多い.
  『世代論』というのは,ある世代の思考や行動の様式を対象に『あの世代は…』と批判する.『今どきの若いものは』という意見や,『団塊世代のおじんは…』などというのが,今の時代の代表的なものだろうか.もっとも『今どきの』というのはいつの時代にもある.
  『世代論批判』はというと,人間の心性というのはもっと普遍的なものであり,生きてきた時代や世代で批判したり,評価するのは偏ったものの見方であるというわけである.
  哲学的な思考でい言えば,やや後者の世代論批判の方に分があり,社会学的な方法論で言えば,前者にも説得力がある.ただし,やや浅薄な印象は免れない.しかし,『世代論』といってもその世代の人間すべての傾向を決めつけるわけではない.あくまでも世代的な特徴を指摘するだけである.血液型で人の性格を決めつけるのよりは,はるかに科学的な方法である.

 社会学の手法に『コーホート分析』というのがある.簡単に言えば,年表のようなものを作り,縦軸に年代,横軸に年齢をとる.1920年から2000年まで生きた人がいれば,縦軸の1920年のところと横軸の0歳のところがその人の誕生,縦軸の2000年と横軸の80歳の所がその人の死亡年.
二つの点をやや太めの斜めの線で結ぶ.二つの座標軸に囲まれた象眼〔しょうげん〕空間には,それぞれの年度ごとの社会的な出来事や現象を書きこむ.あらゆる世代を巻き込んだような大事件は,その年代の全世代にまたがるように横長に書きこむ.その事件や事象が,若い人が主人公であったり,高齢者が対象である場合,横軸のその世代の幅の部分に書きこむ.
  こうすると,その人が誕生から死亡までに遭遇した社会現象が,その斜めの線上に浮かび上がる.例えばこの人は1930年10歳のときに,ゲーリークーパーとマレーヌディートリヒの主演した映画『モロッコ』を見て映画ファンになり,1945年に25歳で日本の敗戦を体験し,27歳くらいのときベビーブームの中で長男が生まれ,1970年の学園紛争のとき長男は23歳で大学を既に卒業していて,1990年バブル崩壊の時既に70歳で会社も引退しており,21世紀を迎える最後の10年は比較的悠々と晩年を過ごせた,などという個人史が見えてくる.

 引きこもりの問題を,このコーホート分析や世代論の視点で見るとどうなるのか?引きこもりはほぼ20代の前半までに問題化する現象だと言われる.今から 25年前というと1977年である.さらに,私たちの所に持ちこまれる引きこもりの相談は30代半ばの人まではざらにある.この人たちは1967年頃に生まれている.1967~1977年頃に生まれた人が,今問題になっている引きこもりの第一世代だと言える.しかし,生まれた年代が問題なのではない.
  彼らが思春期を迎える概〔おおむ〕ね15歳程度の年代に,社会でどんな出来事が起きていたのかを問題にすべきである.すると1982~1992年頃が問題となる.

 この時代の経済社会の最大の変化と言えば,1985年プラザ合意によるドル高是正の協調介入に始まって,日本の円高,バブル経済による土地・株式等の高騰〔こうとう〕であり,それが1991年には完全に崩壊し,現在に続く長い経済停滞期に入ったことである.
  この時期,日本は一人当りGDP〔=国内総生産〕はアメリカを抜いて世界第一位,世界一の金満国になっていた.日本の戦後経済発展の一翼を支えた家電ブームは去っていて,家庭用VTRが辛〔かろ〕うじてこの時期に急速普及をしていた.VTRの普及はビデオショップの普及を牽引〔けんいん〕し,若者たちはこぞってビデオ店に押しかけ,ビデオ視聴が若者の生活文化の中心をなすかに見えた.

 家電の普及率がほとんど100%に達し,産業は空洞化し,内需〔ないじゅ〕は停滞した.物質的な豊かさは頂点に近かったが,日本には既にもう,売る物も,買う物もないに等しかった.仕方なく土地の値段を上げ,株の値段が上がった.当然,にわか成金が続出し,高級車や貴金属が売れ,円高を背景に海外旅行だけが急成長した.

 戦後の家電ブームは,TVやステレオなどのAV〈オーディオ・ビジュアル〉機器を除いて,何らかの生産活動の代替〔だいたい〕機能を有していた,冷蔵庫,洗濯機,掃除機,炊飯器みな然りである.生産活動そのものでなくても,生産や消費の刺激やそのための余暇創出に役立った.
  1980年代以後売れるようになった品物として,前出のVTRあるいはその後のCD,LDあるいはMDとそのプレーヤー,ファミコンの類,家庭に普及し始めるパソコン,ポケベル,携帯電話….これらの一部は生産活動に役立てられていないとは言えないものの,ほとんどが消費活動,とりわけ時間消費のために用いられているものである.つまりは暇つぶしのための機器である.つまり人間は暇になったのである.バブル経済に象徴されたように,人間は汗水流して働くよりも,土地や株を動かしている方がはるかに大きな金を稼げた.

 すべての人間がその恩恵〔おんけい〕に浴した訳ではないが,まじめな勤労意欲を失わせるのに充分な体験だった.つまり人間は怠惰になった.すべての人がそうだとは言わない.少なくともかつて日本人の国民性として『勤勉』が言われたが,バブル以後それは死語になった.

 暇になり,怠惰になった日本人は,かつてのように若者を教育し,企業前線に駆り立てる必要もなくなった.つまり若者の役割や出番は圧倒的に少なくなった.
  あるとすれば,一部の社会中枢の世代交代要員(エリート)と,閑〔ひま〕で怠惰な日本人の相手をする安価な労働力としてのフリーターくらいである.深夜のコンビニのレジ係,ファストフードの店員,風俗産業やサラ金のティッシュ配りやチラし配り,あるいは風俗産業そのものの働き手.別にこれらの仕事を見下すわけではないが,こんな仕事をするのに,資格も要らなければ高等教育も要らない.

 にもかかわらず,親も学校も教師も大学進学を薦〔すす〕め,人間性を削ってでも偏差値を高めろと言う.あるいは若者の役割が少なくなったこんな時代だからこそ,エリートの座を掴〔つか〕めというのだろうか?

 親と祖父母,あるいはその一代前くらいまでの世代にとって,教育は絶対的な価値を生み出すものとして考えられていた.富めるものはその富を守る手段として,貧しいものは貧しさから抜け出す手段として,教育の価値は疑う余地がなかった.かつて教育は知性や理性,あるいは知識や技術と同義語だった.自ら研鑚〔けんさん〕しつつ,その可能性を引き出すべきものであった.
  しかし,競争社会の中で,いつのまにか「教育には謙虚さがなく,打算的な目的の他動詞になり果て」(『親と教師が少し楽になる本』佐々木賢著・北斗出版)てしまった.
  しかも,役割もない者に資格を取らせ,資格をとるためにさらに搾〔しぼ〕り取るという,教育自体の詐欺〔さぎ〕化現象(前掲書)が起きている.達成感のない努力を強いて,メダルを取った人からその達成感を奪い取ろうとしているのが,今の社会における『教育』ではないのか?

 時代を学ばない人には世代を論じることはできない.ただ,世代論はある世代の人間が別の世代の人間を非難するための論ではない.今の時代の若者たちに,無力感を植え付けたのは,明らかにその前の世代の人々,つまりわれわれの世代の責任なのだから.
(7月20日)

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