直言曲言 第32回 「人間体験不足―タテ・ヨコ・ナナメの社会学―」
『縦型社会』とか『横並び社会』と言われている.縦型社会とは年功序列を重視したり,軍隊のように階級を重視する社会である.偏差値のようにある種の能力を数値化して,縦に並べ,上から順番に良い大学に入れたりするのも,縦型社会の考え方である.
一方,横並び社会とは同じ年齢や同じ能力の者には同じ待遇を与えて行くという考え方である.例えば偏差値についてある偏差値水準の平面で輪切りにすると,同じ偏差値の人の集合体であり,これらの人が同じ大学に入学を許されるとすると,その大学は同じような能力を持った人の集合体となる.結局,横並び社会も縦型社会と同じになる.
人間同士の能力比較や関係性はタテとヨコしかないのか,というと,実はこれが大間違いであり,そのことが引きこもりを生み出す大きな原因にもなっているのである.
偏差値のような縦型の尺度は,せいぜい三教科とか五教科の試験成績の分布であり,その尺度を用いる限り,人間をタテに積み上げることは可能である.
しかし,人間の能力は数学と英語と物理の学力だけで比較できるわけではない.実際に長い人生を生きていく上では,健康な肉体,美味しい料理を作る能力,他人を楽しませたり喜ばせたりする能力,さまざまな能力が必要である.もしそうした能力を加味しようとするなら,学力というX軸上のある一点だけでなく,X軸上を移動する任意の地点でのY軸上の得点を比較しなければならない.そもそも,そのような比較をすれば自分の学力の偏差値そのものが,その他の能力位置とタテの関係ではなく,いわばナナメの位置関係になることが分かる.
現実には人類は圧倒的に多くのナナメに位置付けられる人間の集合体であるのに,タテとヨコの単純な関係集団であるかのように錯覚させられているのである.
高度経済成長による人口の大量な都市への移動は,必然的に多くの核家族を生み出した.伯(叔)父・伯(叔)母や従兄妹たちに取り囲まれた大家族は消滅し,両親と兄弟だけの家族になった.地域社会(コミュニティ)も消滅し,近所で年長のガキ大将にいじめられ,鍛えられるような人間関係も消滅した.
競争社会の中で,同年齢のクラス仲間は受験戦争のライバルであり,親友と呼べるような友達はいず,表面的な遊び友達しかいない.こうした環境で育ってきた今の若者の多くは,タテとヨコの極めて希薄な人間関係しか知らない.タテとは両親と学校の先生であり,ヨコは同世代のライバルたちである.タテとヨコの極めて細い細い針金のような人間関係で生きてきた若者は,青年期を迎え社会に出て行かなければならない時期を迎えると,他人との距離感や関係作りに確実に戸惑ってしまう.
子ども時代には,近所の遊び仲間といたずらに精を出し,どこにも必ずいた雷親父のようなおじさんから叱られた経験がある.しかし,今の時代に他人の子どもを叱る大人など滅多にいない.子どもから少年期にかけては,本来なら友人関係を深めたり,他人の大人とのさまざまな出会いが用意される.しかし,受験勉強に専念させるような家庭環境では,家族(親)が対人関係の≪防風林≫のような役割を果たしてしまい,まったくの無風地帯のような場所で他人からの風当たりを経験しないで育ってしまう.
現代の核家族の特徴の,もう一つは来客が極端に少ないことである.引きこもりの若者の親と話すときに私は,『この一週間の間に,あなたのお宅にはどれくらいのお客様を迎えましたか?』と尋ねることにしている.答えはほとんど『ゼロ』である.昔は親戚や知人が出入りし,来客を交えての食事になることも多く,子供たちは知らず知らずに他人の大人たちとの付き合いに巻き込まれていった.ところが,最近では家を訪問する人といえば,新興宗教の勧誘やセールスマン,宅配便か集金人程度である.たいていは玄関先で用が済み,座敷に通すような客などまったくいない.玄関先への集金人ですら銀行引き落としになったり,セールスマンも電話やDMやメールに置き換わって,ドアホーンを押す人すらいない.これでは人間関係に慣れることは,どだい無理である.
引きこもりの若者達の,親から見れば理解不能な行動は,実はこんなに単純な人間体験不足に起因している.タテとヨコの薄っぺらな人間関係しか知らない若者達に対して,親は「他人に迷惑を掛けてはいけない」と脅しの追い討ちを掛け,ますます人間関係に臆病にさせてしまう.
引きこもりの原因の本質的な部分がこんなにシンプルであることを理解すれば,その解決法もシンプルなのだということをお分かりいただけるだろう.タテでもヨコでもない第三者の介入によってしか解決の糸口は掴めない.『レンタルお姉さん』である.レンタルお姉さんを『友達派遣』と誤解する親御さんは意外に多い.引きこもり脱出のために,友達づくりが重要なのは事実である.しかし,レンタルお姉さんは友達(=ヨコの人間関係)ではない.タテでもヨコでもない『ナナメ』の人間関係の体験なのである.レンタルお姉さんは『引っ張り出し役』であり,友達づくりへの切っ掛けを提供するに過ぎない.
自分を庇護し,教え育てる親や先生とのタテの関係,同世代で友達候補者でありながら競い合い,傷つけ合うヨコの関係しか知らない引きこもりは,初めてのナナメの人間関係としての『レンタルお姉さん』の登場に激しく戸惑う.しかし,そのうちに人間はわずかなタテとヨコの関係だけでなく,その他の圧倒的なナナメの関係の見知らぬ人達の間に入っていかない限り,社会的に生きていけないということを知る.そのとき初めて,次の手段が意味を持つことになる.
引きこもりの親達はこの単純な事実に気付かない.家族自体が社会的に自閉した核家族状態の中で,子ども達に人間体験の道を閉ざし,人間不信や対人恐怖を煽りながら,家族の中に閉じ込めておき,そのくせ「せめてアルバイトにいけるようになったら」などと夢想している.
家族は美しい.家族は仲良い.核家族は民主的で平等な人間関係に支えられている.家族だけが<信頼できる人間関係である>という誤った人間観を植付け,地域社会(コミュニティ)からさえ孤立し,子どもが健全な社会性を身につけられると思うのだろうか?
本当は引きこもりの若者だけの問題ではない.親自身がこうした人間観,家族観,社会観を改めない限り,子どもが豊かな人間関係,縦横以外のさまざまな人間に出会える可能性はあらかじめ閉ざされてしまっているのである.
(12月26日)