直言曲言 第9回 「人間嫌い―慢性不機嫌症候群―」
「対人恐怖」は引きこもりの若者にほとんど共通する症状のひとつで,これが克服できないから《外》に出られない.私は『閉じられた家族』を「対人恐怖」の原因として指摘し,『家族を開く』ことを提案している.
高度経済成長期以後に急増した『核家族』は家族の求心力が強く,「家族が仲良く暮らす」ことを最大の幸福目標としてきた.同時に,『幸福』の条件は家族が暮らすためのマイホームであり,お金であり,そのお金を稼ぐための学歴でもあった.お金を稼ぐために父親は家庭を顧みず,母親は子供を学校に任せてパートタイマーになる.『幸福目標』とは裏腹な家庭環境の中で子ども達は育てられた.
家族の暮らす場である家は,それぞれが保有する鍵を媒介にして家族をつなぎとめてはいるが,そこには昔のように人は訪ねて来ず,子ども達は親と先生以外の他人を知らずに育っていく.
家は『閉じられ』ており,他人が入り込むことのできない『城』になっている.こんなことは日本の家族としても,おそらく高度経済成長後のわずかな体験であり,他人を知らずに育った子どもたちが「対人恐怖」に陥りやすいのは理の当然でもあり,『渡る世間は鬼ばかり』という誤った人間観を持っても仕方がない.
高度経済成長期といえば1960年から始まっており,既に40年が経過している.その頃子どもだった世代と言えばまさに《団塊の世代》であり,《団塊の世代》こそがそのように育てられてきた.彼らが結婚し,子育てをし,その子どもが成人する時代になって『引きこもり』が深刻化した.
つまり『対人恐怖』が現代人の《獲得形質》化してしまったのではないか? 私は若者たち以前に《団塊の世代》の生き様に時々大きな疑問を感じる.
毎朝の通勤電車.一時ほどの通勤地獄と言うほどでもなく,文庫本が読める程度の混雑.それでも,発車時にはドアからなだれ込もうとする人の圧力で窮屈や多少の苦痛を感じるのはやむを得ない.団塊の世代と思しき中年女性は人に押されることを断固として拒否し,全力で押し返してくる.自分の領分を他人に侵されることは絶対に許さないといった形相で.この人,少しおかしいのではないかと思った.
昼下がりの喫茶店.カウンター席でコーヒーを飲みながらタバコを燻らせている私.その煙が風の向きで隣席の営業マン風中年男性の方に流れた.彼は持っていた書類かばんでその煙を扇いで私の方に押し返そうとする.私は慌ててタバコの火を消し,少しだけ詫びの会釈をする.もちろん,私の態度など彼は無視.わざとらしく咳き込み,その後もコーヒーカップを皿に置くたびにガチャンと不快感をあらわにする.断っておくが,この喫茶店は禁煙席がほとんどで,喫煙席はカウンターと一部のテーブルだけ,その喫煙コーナーでの話である.
この情景は喫煙者と非喫煙者で受け止め方が違うだろうが,先ほどの通勤電車の中年女性も含めてこの人達は,特定の私に対して敵意を抱いているのでないとしたら,「人間嫌い」なのかな?と思わせた.
『象の時間 ネズミの時間』というベストセラーがあったのはご存知だろうか? 個体の大きさにより,食物の摂食時間や摂食量が違い,必要とする生活テリトリーの広さも異なるという話である.一定のテリトリーに同一種の生物が増えすぎると,食料が減ったり,天敵が増えたりして種の量がコントロールされるようになる.生態系というのはそのようなものである.
人間だけがこのような生態系の宿命から逃れて,猛烈に数を増やしつづけている.おそらく科学技術の成果を含めて,他の生物や環境を犠牲にしながら,これからも人間は増殖して行くのだろう.
しかし,これだけタフな人間もどうやらそろそろ増殖の限界に迫っているようだ.個体が蔓延る限界の密度に近づいているに違いない.満員電車の女性も,私の喫煙に立腹した男性も,都市の過密の中で生理的限界を侵され,『人間嫌い』になっているのは明らかだ.こうした『慢性不機嫌症候群』の人間は,良く見れば私たちの周りに無数に存在する.
引きこもりの若者もひょっとすると,こうした「人間が人間の天敵」となって個体を減らして行こうとする時代を,先取りしようとしているのかも知れない.ただ,彼らはあまりにもやさしすぎる存在だから,全力で他人を押し返したり,コーヒーカップをガチャンと置いたりという対他攻撃ができず,自分をいじめたり,せいぜい親をいじめることによりストレスを緩和させているのである.
心を開き,自分を開き,家族を開いて行かなければ,人間はやがて皆,不機嫌な人間嫌いになり,鎧を着て通勤電車に乗り,防毒マスクをつけて喫茶店に入るようになるだろう.
(4月9日)