引きこもり問題に直面している家族に限ったことではないし、今に始まったことでもないが、家族はずっと閉じている。近隣との付き合いもなければ、親戚との付き合いもなく、家の中に家族以外の他人が入ってくることもなければ、子どもが中学生にでもなれば他人の家で一緒にご飯を食べることもない。家の外も閉塞している。個人商店がなくなり、飲食居酒屋大手チェーンやコンビニエンスストア、ショッピングモールが飽和状態で、都市部も田舎も郊外化している。人が集って飲食できる場所は、そういった店の個室かイートインコーナーくらいか、喫茶店もカフェになり出会う場ではなく個々が消費する有料休憩所になっている。公園や路上や河川敷も誰のものでもなければ、誰かのためのものではなく、行政や委託された業者の管理下にある。ベンチやゴミ箱すら減っていき、野宿者も追い出された。引きこもりの自助会的な集まりは、カラオケボックスやら公民館の部屋を時間で支払い借りて、懇親会は安い酒やフリードリンクで選択肢の多いメニューのファミリーレストランなんかで行われた。そのような交流でとりあえずは生きていくしかないなと確認しあいながらも、それぞれでやるしかなく多くは解散し集まりも少なくもなっていったのであった。
一方で便利にはなった。買い物にいかなくてもお金さえあれば世界中の商品が自宅に届くようになり、店に行かなくても店で作るような料理が自宅で安価に食べられるようになった。そして、実際に会わなくても世界中の人とリアルタイムに映像や音声で通信ができるようになり、世界中の人の表現活動を居ながらにして触れることも出来るようになった。災害でもなければ、近隣や親族も含め、会う必要もない偶然の他者と集わなくてはならない理由はなくなった。価値観の違う人と一緒に居ることはないだろうと一人部屋の中で思いながらも、対立し炎上するようなインターネット上でのやり取りを傍観するようになっていた。代理紛争的なものが家の中に氾濫し、親子の本来ある対立点は避けられ外からも隠されたままになっている。そして、家族生活の目的は生きることを共にする共食共同体ではなく、家は個々の構成員たちが意図しない他人一般を入れない自衛のための城へと変わっていった。このようにして家族を小さく守る生活や閉塞した町は、個を保存はできても種は保存できない。少子化問題だ。私たちは「家族をひらく」を合言葉に日々の活動をしてきているが、引きこもり問題の原因は、この機密性の高い家族を構成している親主導で続けられてきた生活スタイルであり、そういう家族だけを前提に経済政策を行ってきた戦後政治こそが、引きこもり問題の当事者たちだ考えている。引きこもらされている若い人を無視するわけではないが、この引きこもり問題当事者たちを変えないことには、引きこもり問題の解決には至らない。
この家族の変化の社会的背景は今の10代や20代の人にはもはや昔話のようでピンとはこないだろうが、それは戦後の経済成長期に始まり今に続いているのだった。引きこもり問題が表面化したのは戦後生まれの団塊の世代が家族を作り親になり、団塊ジュニアが社会に出るような年齢、今から20年も前に社会問題となった。1960年代から1990年までの約30年間、成年になった男子のほとんどは、正社員や公務員などとして雇用されサラリーマンとなり、成年女子は結婚し専業主婦やパート労働をしながら、子どもを1人2人産んで核家族を作り都市部の団地やマンションなどに住むようになった。4人5人と子どもを産むのは親しみがない人たちが密集した狭い住居(世間体)や教育費の都合なんかを考えると難儀であった。地域や親戚を失った子育ての不安は、消費活動と受験教育の過熱を引き起こした。高度経済成長期だ。都市部や郊外で生きていくためには企業などに雇用されるしかなく、少しでも豊かに暮らすならば点数の高い学歴を得て雇ってもらうしかなかった。受験のため子どもたちを早くから塾に通わせるようになった。大学は企業に就職するためのアリバイ機関として先鋭化されていった。働く=雇われるということではないのに、仕事=正社員とされ、生きるための学問は営利企業に雇われるための学問として誠実さを失い教育は歪んでいく一方になった。当然のことながらこのような学校教育が不登校生をつくったのであって、一般的に認識されているその逆はありえないのだ。それでも、雇われる以外の生きながらえ方を親は知らず、登校拒否児童を学校に戻そうという親たちはあとを絶えなかった。そんな中で次世代の人間不信や対人恐怖は積もっていった。そして、バブル崩壊後の就職氷河期という最悪の事態が起きる。引きこもり問題が社会問題化したのはこのころだった。
ここでさすがに親は方向を見失ったと反省すべきで、政治的にも転換点のはずだった。当時、大量生産や環境破壊、消費や物欲ばかりで人間関係の希薄さを問題にするような世論はあったが、この人的大災害に対して政治は地道な経済を復興させようとしたのではなく、さらに大企業を優遇することでまだ中国などの新興国に負けまいと若者の引きこもり問題やフリーター労働問題などを棚上げし、過去の経済発展にすがる判断をしたのだった。震災復興も巨額の公共事業を既存企業に投じる同じ路線で行われた。ここからは後戻りができず、さらに悲惨な失われた20年といわれた状況が始まった。戦後必要だった経済発展ではなく、経済成長を強要された金融主体の神経戦は、勝ち組負け組み正規非正規など民を分断した。それが失われた20年、若者たちは周到に力を削がれ、外へ出ればかつてパート主婦たちが副収入として開発したアルバイトという働き方しかなく、引きこもり問題はその当事者として押し付けられたのであった。
上に書いたようなことは一つの側面ではあるが、言わずと知れた現代生活史であると考えている。現在20代で引きこもっている親の年はおよそ50代、経済バブル期に就職していった最後の世代である。引きこもり不登校問題前夜、校内暴力などが社会問題となり一時は派手に反発もした世代である。8050問題なんかといわれ、介護と引きこもりと子育てが一緒くたにされるような年代で、今の50代が親であるにしろ子とされるにしろ引きこもり問題の中心に当てられているようではあるが、あと十年以内に団塊ジュニア周辺ロストジェネレーション世代が親となり再び引きこもり問題に直面する。すでに最近、中学生は学生が減っているのにもかかわらず、不登校生は急増している。私たちに何が出来るのか、待っていてもだめだ、大本を断とう、家族を開きにいこう、そうだ家で「鍋の会」をしよう。人によって断たれた信頼は人によってしか回復できない。声かけもしますが、呼ばれたらどこへでも行きます。一大事業になります。会場、ご参加、ご協力、ご寄付などお願いします。
2019年7月19日 髙橋淳敏
今回22日はリフォーム中の橋本ニューブランチの軒下から突如出現した井戸をこれから使用していこうと水道屋さんを呼んで井戸開きをするという事で立ち合いに行きましたが…
水道屋さんの都合で延期になり庭に小屋を建てる事になりました。6畳程の屋根付きでパーツをネジで止めていくような大人のプラモデルといった感じでした。序盤に手伝った僕は合間に子供達と近くの川で水遊び。天然の川の水はすごく冷たくて足をつけるくらいでちょうど良く海パンで遊ぶ子供は帰る頃には唇が青紫になっていました。帰ると作業は進んでいてなんとか日が暮れる前に完成させたいと大人達は張りきっていました。僕もお手伝いに合流して夕方頃に何とか一通り完成しました。この日昼食にはチキンライス、夜はお好み焼きをご馳走になりました。とても美味しかったです。そして7月13日にも今度こそ井戸開きに立ち合うという事でお邪魔させてもらいましたが、井戸の蓋と思っていたコンクリートから小さな鉄管が出現してもう井戸は開いていたという事で儀式的な事もなくリフォーム作業へ切り替わり壁の漆喰塗りを行いました。前回以上に子供と遊んでいてあまり手伝ってなかったのですが一応その日に塗る分は終わらせれました。この日も昼食にドライカレーとスープを頂きました。最近はCPAOに行くといつも美味しい料理も食べれて子供と思う存分遊んで完全に自分の楽しみで参加しています。次はもうちょっと手伝いにも力を入れますのでまたみんなで行きたいと思います。自由人

○ラーメン部その4@高槻6,25(火)~よるべクラブ~
4回目の今日は塩ラーメンです。高槻、茨木にはありがたいことにたくさんのラ-
メン屋さんがあります。しかしその多くは車では行きやすい場所や、駐車場もそんなにないのに駅から遠い場所などにあるように感じます。そしてラーメン部としてもまずは食べたいラーメンはどこのラーメンかというところから決めていくので、もちろん場所はあとから着いてきます。そこがどれほど行きにくい場所であってもそこにラーメン屋がある限り私たちは自転車や電車やバス、そしてこの足を使って向かいます。初めと終わりにストイックな練習があり、間に試合を挟むと言った感じでしょうか。美味しく食べる一杯のために(病弱な胃を持ってでもラーメンが食べたいという部員の内臓も気遣いながら)そしてラーメン部オリジナルラーメンを作りましょう。(く)

○ラーメン部その5@茨木7,9(火)~よるべクラブ~
前回より遠いかもと初めから覚悟していたので、雨がポツリポツリ降る曇り天気のおかげもあってか自転車移動が楽に感じました。ラーメン部のハードな活動が効いて、もしかしたら太ももの筋肉がついてきたのかもしれません。こってりラーメンらしいと話していて、=とんこつラーメンだと勘違いしていました。現地に着くと、鶏白湯のとろとろスープでした。チキン南蛮がセットで選べたり、サイドメニューも豊富です。毎回一口ラーメンを食べてみて、あぁまた全然違う味だ、色んなラーメンがあるもんだと実感します。今までの5店舗全て違うジャンルで、今回も食べ終わって話して、とんこつも、中華そば系もまだ食べてなくて、次何食べようかと。ラーメン。想像以上に奥が深いです。(く)

『448回目の鍋』
6月23日。鍋会の担当を受けてから3、4年ぐらいは経ったようですが、それも今回で最後となりました。
短いようで長い期間でしたが、正直に言って、自分はここまで続けられる自信は当初なかったと思います。
少なくとも子供の頃から「リーダー」になるようなタイプではなかったですし、「班長」とか「委員長」とかまとめ役をやった記憶もありません。
ただ一つあるとすれば、「ゲーム」に関して言えばそういう立場になった事は何度もありました。インターネットを通じてやる「オンラインゲーム」の中は現実とは掛け離れた仮想世界で、「自分ではない自分」になれる唯一の場所だったと思います。
それでもそういう役割は自分にはやはり合わないのか、長く続くというような事は決してありませんでした。
だから鍋会の話を受けた時にも、「とりあえずやるけど、たぶん長くは続かないだろうな」というような考えが少なからず自分の中にはありました。
でも実際には「意外と続けられたな」という印象を今では持ってます。
こんな自分を支えて下さったNSスタッフの人たちや今まで参加して下さった方々がいたから、3、4年も続けられたのだと思います。
思えばゲームの中でも仲間たちに支えられながら「リーダー」をやっていました。
人は一人じゃ生きていけない、だから支えてくれる人がいて初めてちゃんと生きていけるし、支えられた分を今度は自分が誰かを支えながら生きていく。
鍋会を支えられながら担当を続けてきた自分は今回を最後にしていなくなりますが、今後は自分も鍋会を支える側として手助け出来ればいいなと思っています。
そして肝心の鍋の事を一切書けてないですが、次回以降の鍋の会に参加して、その日に参加した人たちに直接聞いてみて下さい。
今までにどんな鍋をやってきたかとか、これまでに作った中で印象に残ったもの、美味しかったものは何鍋だったかとか。
気になる事があれば遠慮しないで聞いてみて下さい。
きっとみんなたくさんの「思い出」を持っていますから、楽しそうに語ってくれるんじゃないでしょうか。
これからの鍋の会は色んな人たちの力を必要としているので、良ければ奮ってご参加いただければ幸いです。
今までありがとうございました。今後とも鍋の会をよろしくお願いします。つぼい。
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2015年の8月から4年近く鍋の会を担当してもらいました。大津や滝畑などへ出張鍋会や400回記念のオールナイト鍋会も開催しました。毎年恒例の餅つきや花見も行いました。思い出はたくさんあります。毎回隊長の乾杯から始まる鍋会もお馴染みになりました。明るく男気があり意外と無鉄砲なようで冷静な隊長でした。担当ではなくなりますがこれからも鍋の会を盛り上げていく一員として楽しんで参加してくださいね。田中一成
『449回目の鍋』
7月14日の鍋の会は、よく交流しているCPAOさんから子どもを含めて参加しに来てくれました。前の日にこちらからCPAOのリノベーションに参加しに行っていたので二日続けて会えた子もいました。他にもニュースタートに以前から関わってくれてた方の子どもさんを連れての参加もあり、今回は子ども多めの鍋の会となりました。メニュー決めも子どもならではの「たこ焼き食べたい。」の声から鍋の会初のたこ焼き鍋となりました。和風だしで最後に冷凍タコ焼きを並べて熱くなったら食べ頃です。これが誰も想像しなかった美味しさでした(^^)子どものアイデアは何にもとらわれずすごいと実感しました。(く)

定例会報告
6月15日(土)16名参加(内御家族さん8組)でした。
今回も初参加の方が多く参加されていて兄弟の方も複数参加されていました。順番にお話を伺いましたが皆さんとても熱心で切実に話されていました。定例会が終わった後には駅近くの飲食店に移動して親睦会も行いました。若者数名が参加して会とはまた違った空気感でお話ができて良かったです。
父母会報告
7月6日(土)に5名参加(内親御さん2組)でした。
冒頭では鍋の会を自分の家でやるという事にどう思いますかという質問で盛り上がりました。その後も色々な場所を巡ったり、人との関わり合いを持つ事が大事な事だと話をしました。目先の仕事など形式にこだわるより色々な出会いや体験の中から楽しみを見出す事の方が引きこもりにとっては大切ではないでしょうか。