NPO法人 ニュースタート事務局関西

7月の定例会◆(不登校・引きこもり・ニートを考える会)

By , 2021年6月20日 2:05 PM

7月の定例会◆(不登校・引きこもり・ニートを考える会)

7月17日(土)14時から (268回定例会)
場所:クロスパル高槻 視聴覚室
当事者・保護者・支援者問わない相談、交流、学びの場です。
参加希望の方は事務局までお申込みください。詳細はこちら
※参加者は中部から西日本全域にわたります。遠方の方もご遠慮なく。
【高槻市青少年センターと共催で行っています】

次回の鍋の会7月25日(日)です。

By , 2021年6月20日 2:01 PM

7月25日(日)おしかけ鍋の会 12時~16時 第464

場所:カフェコモンズ 

待ち合わせ:11時45分にJR摂津富田駅改札前

参加費:カンパ制

参加資格:鍋会参加前後に定例会に参加していただけたらと思います。

※現在はみんなで作る鍋ではなく、こちらで料理を作っています。

料理を参加者に方に調理担当として任せたいと考えています。調理担当しながらの参加希望も興味のある方はぜひ事務局までお問い合わせください。一緒に話しながら決めていきましょう。

 

感染症予防対策:入室するときは消毒してください。一部窓を開けた状態にしています。暖かい格好でお越しください。正面向かい合っては食べないようお願いします。厨房は決まった人だけが入り、お皿を洗うときは消毒をしてもらいます。話すときはマスクをして話してください。距離は保ってください。不安に感じることなどありましたら、その場でお伝えください。

※ 中止など変更の際はご連絡しますので、参加希望の方は必ず事務局までお申込みください。

「6月13日鍋の会」報告

By , 2021年6月14日 7:57 AM

「6月13日鍋の会」

 6月13日(日)カフェコモンズで463回目の鍋の会開催しました。今回もみんなで鍋を作ることはせず(以前はその日集まった参加者みんなで何鍋にするかを考えて買い物に行き作ることもしていました。)こちらで作っておいたチキンカレーとキッシュ、差し入れに持ってきてくれたマカロニサラダを食べました。みんなで鍋を作れなくなってからは、感染防止のためにも限られた人が作っていましたが、これからは感染対策をした上で参加する人に調理担当をお願いして鍋の会を開催していきたいです。「ご飯食べに話をしに行く」というよりは何か役割があったほうが参加しやすい人もいるとも思います。

 鍋の会は無理に話さなくてはならない場ではありません。ただいること。その場で他の人と一緒に時間を過ごすというために参加してもらえたらと思います。他の人が話しているのを観察することも大事で、自分のことだと見えてなかったようなことが見えてきたりするかもしれません。(あ、この人自分の考え方と似ているな、そうか他の人はそういう風にみているのか)など自分で体験する前に、他人を通して体験することからはじめてもいいと思うのです。自分の家族の中の価値観しか知らないままではなく、違う環境で生きてきた人の自分とは違う価値観に触れることもできます。

 今回の鍋の会で例えばズームで鍋の会って可能だろうかという話をしました。遠くから参加する人にとってはいいのではないかという意見もありました。他には、鍋の会のあいだにある、誰も話をしない時間や人とのやり取りで気まずい瞬間などを肌で感じることが大事な気もするという意見。それこそ今までの鍋の会でも参加者の方どうしで意見がぶつかり合うことも何度かありました。そのときにもし画面上だけで言い合い相手が電源を消して離れてしまったらそれで終わりになってしまうのではないか。ぶつかり合っても周りの人の意見やお互いの表情、そして何より鍋の片付けなどを一緒にする時間の中で(鍋の会では準備や片づけを参加者みんなで行います)ぶつかり合いのあとの話ができることもある。会議や定例会などならまだズームなどの参加も可能かもしれないが、「鍋の会」は不便でも、非効率でも、何も話せなくても集まることが大事なのかもしれない。(くみこ)

 

「コミュニケーションという障害~後編~」高橋淳敏

By , 2021年6月11日 10:32 AM

 さて、戦争でアメリカに完膚なきまでにして負ける。その負けたことを悔しがるならまだしも、負けたことを被害や罰として振り返るくらいで、少しの戦犯が戦争の延長上に裁かれた程度でもってして、国として戦争責任をとることができなかった。日本は差別されることで、その当てつけに他国や他民族を差別し、国家なるモノが覚醒し生まれた普遍の加害国であり、植民者としての反省がないままに戦後も始まるのであった。アメリカ統治によるアメリカの「言うことを聞く」コミュニケーションが再び棘を抜かれて逆輸入される。そして、責任なき国家は西側連合軍として、今度は経済戦争に突入する。この時期、学生運動など旧帝国大学で学んだようなエリート学生が主導する新たなコミュニケーションによる抵抗はあったが、都市に出てきてはインテリゲンチャが慣れの果て、多くはコーポレーション(カンパニー)に人材として買われていくことになる。いわゆる集団就職であり、高度経済成長期である。注目すべきはこの時期は、個人の欲望が増幅するようにして、その国民をなぞっていけば国家が作れてしまうという稀有な時代であった。それでできたのが一億総中流社会であって、哲学も思想も政治も必要なければ、市場がほぼ全ての世界となる。ソ連も崩壊しワンサイドゲームとなるが、やれ自由や豊かさとは何か。一方で民衆は新たな時代であると植民者なのか被植民者なのかマスコミュニケーションに惚けてしまい加害体験を過去のモノにすると、地域コミュニティーは解体され、市民としてのコミュニケーションはコーポレーションや核家族の中へと閉ざされた。ストライキやサボタージュ、デモに法廷闘争、家庭内暴力や自殺、犯罪、非行など民衆のコミュニケーションは散発はするが運動せず、個別のモノとして表れては消えていく。帰還兵や傷病兵の加害経験は、超法規的民衆の正義として暴かれるコトはなく個人に隠蔽され、戦後社会によって癒されるコトもなく消されたのであった。

 

 それで、ようやく私が初めて「コミュニケーション」という言葉を聞いただろう記憶がやってくる。定かでもないが、始めは、1980年代に会社の上司が、何を考えているか分からないような新入社員と上手くやっていくにはコミュニケーションが必要だといったニュアンスで知ったように思う。それは軍服のほころびを見つけたくらいのコトであった。その後はあまり理解のできないコミュニケーションを茶化して、飲みニケーションという言葉が流行した記憶はある。いずれにしても、このころ流通していたコミュニケーションは、当時「新人類」だったか、よく理解できない若者に対して、大人の方が若者を理解するために必要なコトであった。当時も今と同様に若者とコミュニケーションができないことが問題であったが、今とは真逆に当時は大人や社会の方が若者に歩み寄るべきコトとしてコミュニケーションはあった。さらには、コミュニケーションはマジョリティーがマイノリティーを理解するため必要であるという民主主義の理解のタメにもあったはずである。一方、マジョリティーからコミュニケーションを強要する形でのマスコミュニケーションや各種ハラスメントは問題であったが、子どもや若者にコミュニケーションの責任を押しつける今とはまるで逆ではあった。親子のコミュニケーションなんて言い方は、まだ水臭いモノだと思われていただろうし、親が子にそこまでして寄り添わなくてはならないと考えられてはいなかった。しかし、登校拒否や引きこもるなどの行為が表れるや否や、親子のコミュニケーションが不足していると指摘されては、コミュニケーションは親の責任とされるのであった。それが現在は本人の発達障害のセイなどとされている。当時まだ子どもであった私にとってコミュニケーションは、大人がしかけてくる面倒なモノだが、社会人の嗜み程度の小さなコトで、被差別者との認識もなければ、目の敵にしなくてはならないといったモノではなかった。さて、国家や権力に抗うこともできたコミュニケーションなるコトが、個人にとっての障害へと変わっていったのはどのようにしてなのか。

 

 日本の戦後資本主義社会において、大人が若者や子どもを理解するためのコミュニケーションであったコトが、若者や子どもが社会に順応するためのコミュニケーション能力などとしてモノに変化したのには明確な時期がある。このコトは、引きこもり問題においてもその発生源の一つとしてよくとり挙げているが、就職氷河期がその境目である。市場経済において、労働力が売り手市場から買い手市場へと180度転換した時期である。勝ち組負け組、格差社会と言われ、このギャップはなかなかに受け入れがたかった。子どもや若者、女性や障害者やマイノリティーのために出現したかにもみえたコミュニケーションが、この時期を境にその本性をあらわし、社会的に立場の弱い側が獲得しなければならない能力、翻っては身につけなければ障害者とされるモノへと変化した。会社や社会、家族を維持していくタメに、若者が労働力として不必要になっただけでなく、コストやリスクとして管理されるモノになった。コミュニティーを解体し、都市や郊外へと流入した労働者・市民は、コーポレーションなる会社共同体に福利厚生や福祉や年金まで人生のすべてを捧げたワケだが、その会社なるコトはバブル経済で他国や未来をも、さんざんに食い散らかした挙句、新たな若者を受け入れはせず、排除したのだ。ここにおいて、薄っすらと繋がっていたかにみえたコミュニケーションというか、その可能性はコトとしては潰えた。よく経済成長時期との「競争」を比較をされるが、一方は植民国の中で同じように豊かになっていく協力ゲームの中での競争、一方はバトルロワイヤルよろしく植民国内の被差別者同士が殺し合いをする出口のない競争を同じ経済として比較しても意味はない。加害を自覚できなかった国の市民によるコーポレーションの限界はそこにあったワケだが、そのコトを自己責任化した普通の若者や子どもたちが資本の一兵卒として身につけなければならなかったのが、学歴や資格や見た目や適応力や従順さなどのもはやコミュニケーションとは言えないコミュニケーション能力と言われるモノである。そして、「コミュニケーション」は人にとって障害となったのだ。

 

 では民衆のコミュニケーションはどこにいったのか?コミュニケーションはモノになって「障害」や「能力」や「トラウマ」や「症状」として、個人に蓄積されてきた。コミュニケーションはモノにされ押しつけられたとしても、それが解放されるならば、国家や資本にも対抗しうるコトへと変わるだろう。障害者やマイノリティー、無職者や女性、非正規労働者にフリーター、単身者、そして抵抗のコミュニケーションは引きこもるという行為によって、日々閉じ込められている。個人に押しつけられたモノとしてのコミュニケーションを協力して解々き、生きながらえる「生」ではなく、コトとして抗う「生」としてのコミュニケーションを私たちは経験している。それは障害者として差別されるモノでもなければ、植民者市民としての権利を主張するモノでもない。個人の「自立」ではなく、ならず者たちの新たな「自治」によって、成長に価値をおかない抵抗のコミュニケーションは日々発酵されていくだろう。私たちはその運動を「ニュー自治」という造語によって表そうとしている。

2021年6月11日 高橋淳敏

「コミュニケーションという障害~前編~」高橋淳敏

By , 2021年5月21日 1:06 PM

コミュニケーションという障害~前編~

 いつからか「コミュニケーション」はカタカナの日本語表記にされて流通した。会話や対話、嘘や比喩、身振り手振り、表情や態度、依存や信仰、言語伝達などコミュニケーションの中身である細やかな言葉もある中で、それらを総称するようにしてか「コミュニケーション」という日本語が、ある時代を境にして、どうして広がっていったのか。便利であったのか、そこになんらかの意図が含まれているのか。似たような時期に同じようにカタカナとして流通した英語はたくさんあるが、それらの言葉が日本語に置き換わるときの、妙な違和感は覚えている。それは全く新しい概念が入ってきたときの違和感に思えたが実は、それほど新しいこともなく、なぜ改めてカタカナで表さなければならないのか、英語の意味と変わっていたりするもような、単に言葉の意味が理解ができない違和感であった。だが、例えば「アイデンティティ」とか「シミュレーション」とか、それまでの日本語では表しにくい言葉がある中で、なぜ「コミュニケーション」は他に表現できそうな言葉が無数にあるのに、いやあるからか、現在のような意味として誰もが知るようになり、使うようになったのか。

 

 私は最近になって「コミュニケーション」という言葉を、それがただ良い言葉であるかのように使われていることを疑っていた。コミュニケーションが「能力」や「障害」などとして、一個人に備わっているモノのようにして語られることが多いが、その使われ方に疑問があった。外来語として入ってはきたが、原則的にその意味を考えるならば、コミュニケーションは相手があって成立するコトで、そのどちらかに責任を押しつけるモノのような意味はない。「話の上手い人と寡黙な人のコミュニケーション」とは言っても、「寡黙な人がコミュニケーションが下手」とは言えない。なぜならば、コミュニケーションはどのようにして行われたかが意味であり内容であって、非言語的であることが劣っているワケではない。例えば、日本語ばかりしゃべる人の中に日本語が話せない人がいた時、その人は「日本語ができない人」とは言えても、コミュニケーション能力が低いだとか、その人に障害があるとは言わないように、コミュニケーションというコトは一個人が背負わされるモノではない。ある人と言語的なコミュニケーションがやりにくいとは言えても、コミュニケーションができないのは「ある人」のセイではない。コミュニケーションが「上手くいった」とは言えても、コミュニケーションが「上手い人」がいるワケではない。

 

 ではなぜコミュニケーションが上手下手な人などと、一個人に押しつけるのか。それが問題である。コミュニケーションという言葉が必要になったワケとして素直に考えられるのは、今まではなかった「コミュニケーション」が必要になったがタメである。身も蓋もないが、一つは英語であり、もう少し言えば英語圏中心に発明されたコミュニケーションである。植民地主義的でもあり、民主主義的でもあり、自由主義的でもあり、資本主義的でもあり、個人主義的であって社交的とも言われるような文化、コミュニケーションの輸入である。江戸期に欧米列国からの差別や植民地支配の危機に瀕した日本国は、差別は甘んじて受けつつ欧米の植民地主義などを真似ることでその危機を回避するタメ、明治期に鞍替えをする。江戸期に燻っていた下級武士がクーデターを起こし国を牽引して、それまでは戦や戦争とは縁のなかった庶民を戦闘員に仕立てる教育が行われ、国家という意識がなかった民に、国民としてのアイデンティティと義務を強要した。成りあがった政治家は、それまでの不遇な分際を当時の被差別日本国と重ね合わせ脱却するために、アジアに対する差別国になるという卑劣な問題解決を謀った。例えばそれが、現在も国際的な場面で利用されている「侍」のような、民衆の思想とは対極にある国家隷属の精神性になる。元侍の植民地主義的戦略において、国民や兵隊に植民者としての自覚を扇動する一方で、植民国の市民としての権利を認めていかざるを得なく、民衆運動が広がりをみせる。差別扇動者の福沢諭吉はコミュニケーションを「人間交流」と棘を抜いて訳そうとしたが、その言葉自体はほとんど知られてもいなかっただろう。だが、このころあったコミュニケーションは、国家や権力に抗った民衆のコミュニケーションである。アナキストでもあり兵隊にもなりえた民衆のコミュニケーションを日本帝国は恐れ、さらなる力での支配を強めていく。この時期コミュニケーションは、各種権利闘争やデモクラシー、テロリズムにクーデター、米騒動にコミュニズム、地域や家族も含め、国家の言うことを聞かない抵抗であった。その外来語はまだ手元には届いてなかったが現実、コミュニケーションこそが国家に対する障害でありえた。

 

 だが、植民者でもあり兵隊にもされた民衆のコミュニケーションは戦争には抵抗しきれなかった。差別国として産声をあげた国家は、地域や家族を巻き込み国と同化し、市民と共謀することになる。そして、民衆のコミュニケーションは冬の時代を迎える。ところで私たちは今でも「親の言うことを聞く」とか、「先生の言うことを聞く」、ある時はお上や神様の言うことを聞くなんて言い方をする。これを例えば字義通り英語で翻訳すると、誰かの言うことをとりもなおさず聞くのはコミュニケーションの基本のようであり、誰かの言うことを聞くだけでは何ら問題もないようには思える。だが、この親や先生の「言うことを聞く」という日本語は、親や先生の思想や良識など「意見に従う」意味として、誰もが一つの慣用句のように理解している。そのような理解がなければ、宿題をしなかったり授業中に席を立ったりする行為は、即座にコミュニケーション障害などと多くの人から名指される事態へと発展しかねない。親や先生の言うことを聞いた後に、聞された側が返答をするといった少しの余地もこの言葉に含まれてはいない。言うことに従えない場合は、学校のガラスを割るか、学校に行かないくらいの選択肢しかない。それが家であれば家出をするか、引きこもるしかない。「言うことを聞く」という双方的に成立するはずの字義通りの言葉が、なぜか一方的なニュアンスをもって語られ続けている。「言うことを聞きなさい!」などと言って怒っているような不可解さは、大人になっても会社などでも日々遭遇するだろう。学校や家庭における「人間交流」なるコミュニケーションは、今も昔も一貫してこの一方通行の理解である。「人の言うことを聞く」ことが本当はどういうことか、民衆のコミュニケーションがなぜ国家に対抗しうるコトとなるのか、戦後においてさらにも、そのような教育は日本でできないでいる。

 

                         2021年5月21日 高橋淳敏

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