・11月6日(日)秋のかぼちゃ祭り☆鍋の会 12時~16時 第475回
☆野菜屋さんでよくかぼちゃを見かけます。ということで急きょ開催かぼちゃ祭りです。ぜひ皆さんのお勧めかぼちゃメニューを持ち寄ってください!(手作りでも甘いものでも)持ち寄れない方でも大丈夫です!お鍋も作ろうと思います。麺を手作りしてカボチャのほうとう鍋はいかがでしょうか!?〇初めての方でも久しぶりの方もぜひご参加下さい!
場所:カフェコモンズ ※集まってみんなで買い物をして、鍋を作りたいと思います。
待ち合わせ:11時45分JR摂津富田駅改札口
参加費:カンパ制
参加資格:鍋会前か後に引きこもりを共に考える交流学習会に参加
※参加希望の方は必ず事務局までお申込み下さい。
11月の定例会◆(不登校・引きこもり・ニートを考える会)
11月19日(土)14時から (284回定例会)
場所:クロスパル高槻 5階 視聴覚室
当事者・保護者・支援者問わない相談、交流、学びの場です。
参加希望の方は事務局までお申込みください。
詳細はこちら
※参加者は中部から西日本全域にわたります。遠方の方もご遠慮なく。
【高槻市青少年センターと共催で行っています】
9月17日(土)の定例会、参加は8名でした。(内3名の方がご家族)ニュースタート事務局関西ではどんな集まりでも、例えば鍋を食べること旅行をすることを目的としているのではなく、それは手段であってそこで必要になるコミュニケーションを目的にして活動している。それこそが大事だと考えているから。他人と会って相手が何を考えているか想像する。1人で引きこもっている時間を長くすることよりはその時間を作っていくことに時間をかける。
皆様の話からは、高校までも人間関係は苦手な方だったが無事進学して大学や専門学校に行き初めたのに、行けなくなる。理由を聞いてもわからない。なぜ答えられないか、それはたくさんの嫌なこと辛いことの経験が日々こまごまとありすぎて簡単には言えないからだろう。学校に行く、ということは自分でも気づかないうちにたくさんのことを周りに適応させてどうにか成り立っている。「授業で前を見て座る」=「この時間は外に出てはならない→しんどくなったらどうしよう、トイレに行きたくなったらどうしよう」そんなの無視すりゃあいいと思えない真面目な子ほどその不安感は大きくなるだろう。「こうしなくてはならない」は「こうはしてはいけない」になり、学校というのはその連続で成り立っていると思う。それに真面目で人の気持ちが想像できる感受性豊かな子こそ適応しすぎてしんどくなってしまう。感覚をマヒさせて適当にでも学校に行っていればいいと思えない子が、行けなくなってしまう。それはとてもまともな感覚の持ち主なのではないだろうか。
子どもが引きこもりだす。これはいつまで続くのか、自分たちがいつまで働けるかもわからないし…という親御さんのお話はよく聞きます。「いつまで引きこもらすか」ではなく、その子がどう生きるかが問題であって「5年10年ずっとこのままだったら」と考えるのではなく、信じて背中を押すことが大事だったと他の親御さんから意見もいただきました。前を向いて頑張っているようなそぶりを見せるわけでもない子を前にしてその子の心の中の変化を信じることは本当に簡単なことではない。確認したいし、その子が動き出す前に口を出したくなる。もちろん放っておいてもいいわけではなく、外の世界や他人とのつながりを持てるような場所(学校や仕事とは関係ないことでも)へつなげようとすることは親のできることだろう。そして出ようとするときは前に立ちふさがるんじゃなくて後ろにいて背中を押す。その時親は子供の方ばかり見ているのではなく子どもと同じ方を見て、自分自身も人生を一生懸命生きていて、そのありのままの姿(かっこよく成功したところしか見せないのではなく)を見せ続けることも大事だと思います。(くみこ)
障害者とは誰の事か
病気は治ると言うが、障害は治るとは言わない。治らない病気もあるが、病気は身体や臓器などの状態の異変を意味していて、それは状態であるから良くも悪くも時々に変化する。だから、自然治癒であろうと西洋医学であろうと病気は治ることがある。障害は、身体や臓器の一部欠損などを意味することがあって、状態とは逆で時々の変化はなく変わらないこと意味している。だから治ることはない。「治る」とは、そのような区別があって、比較して分かりやすい。一方で、病気も障害も「持つ」という。「あの人は病気を持っている」とも言うし、「私は障害を持っている」とも言う。この「持つ」という場合、病気や障害が主語になっても区別できないが、どうしても「障害を持っている」と言われていることに違和感がある。たぶん私だけではないんじゃないかと思って、そのことについて書いてみる。
違和感の答えはここでも何度かは書いていて、感覚的にも簡単なことである。障害はその人が持っているものではなくて、その人が持たされているものであるという話しだ。そもそも「障害は持てる」ものではなくて、自分の外にあるか、あるいは社会との間に障害は設けられている。要するに、「障害者」ではなく、普段「障がい者」などとお茶を濁して記述している名詞は「被障害者」と呼ぶ方が分かりやすい。簡潔に言えば、「健常者」と想定されている人にとって過ごしやすく今の社会は設計されがちで、段差や階段なんかは健常者ではない人にとっては「障害」になることがあって、その障害を持たされている人は「被障害者」ということになる。当然、「障害」は自分の外にある。「障害」を持っているか、持たされているかは、その人と周りの環境に依る。「健常者」も、無関係ではいられない。
最近中学校で、今まで障害物リレーと言われていた競技が、チャレンジリレーと言われていることを聞いた。障害者の害の字を平仮名にした時以上の違和感があった。「障害」をないことにしようとしているか、それ以上に「障害」を設けている今の社会に無知であろうとする態度、事なかれ主義以上の積極的事なかれ主義、リスクマネジメントというか、とにかくそこには外にあるはっきりとした「障害」を隠す意図がある。自分たちが設けている「障害」に向き合わないどころか、見もしない。そういう学びが、教育現場で推進されていることに希望はない。それがどんな障害であるかは問わず、個人が隠された障害を乗り越えることにチャレンジし続けることでしかないという狂気もみえてくる。
「被障害者」のことを、生まれながらにして障害を被っている友人に聞いたら、障害者も被障害者も一括りにされている感じがあって、そういう呼び名は気に入らないとのことだった。障害を持っているのではなく、障害を抱えていることであって、もっと一人一人の事情を見るようにすべきじゃないかと言われた。確かに、「ひきこもり」が社会問題であると私たちが主張するときも、一人一人に引きこもる原因があるのではなく、それらは概ね同じではないが共通して、その人の外に原因があると考えているわけだ。それは人ではなく抽象的な社会や家族しかみていない印象はある。障害を持っているのでも、持たされているのでも、その人のアイデンティティとしてある。当事者としてのアイデンティティがあって、可能になるコミュニケーションはある。「ひきこもり」の場合は、その定義が人との関りがないということなので、人前やコミュニケーションの中でそのアイデンティティを持つ矛盾が生じる。
障害は、介護保険制度やバリアフリー化、合理的配慮などがあって外では見えにくくなり、制度化された代償として隔離され隠されるようにもなって、どんどんと拡散し多様化していった。その最たるが、コミュニケーション障害や発達障害と言われるものだと考える。それでも、障害が個人の内面にあるのではなく、個人の外にあるのは変わらない。障害化した学校など、私たちが普段常識的に設けてしまっている障害を取り除けば、コミュニケーションや発達の障害が取り除かれることもある。障害が自分の内側にあるのではなく外にあると考えるならば、障害が治る(直る)ということもありえる。障害を変えることはできるが、それが出来るのは障害を抱えている当事者「被障害者」ではなく、障害を無自覚に設けている私たち「(加)障害者」である。私たち障害者は、障害は乗り越えるのではなく、そこに自分たちが障害を設けていることを自覚すればいい。
社会との出会いなんて明確な出来事はないし、あったとしても覚えてはいないが、社会を意識して、その後どのようにして付き合っていけるのか、ずっと悩まされ続けたことを覚えている。そういった意味で、私というか私たちの世代は「被障害者」でもあった。たぶん幼稚園ごろから、親や学校や近所の人や親戚なんかとの関係の中で、その障害はあった。さしたる能力がなくても、それほど大したことでなくとも働けば、それが人のためにもなり、さして大きくもない承認欲求も満たされれば、食って生きていくことができる、そのように設計されていない社会に対する失望から始まっている。インターネットはなかったが、世界は手元にあった。競争して勝ち続ければ青天井にその世界からより多くのことを享受できるが、競争しなければ負ければ手元にある世界からも疎外される。人と協力して生きるのではなく、人から奪ったり嫌なことを押しつけたりできなくては、この世界では生きていけないという現実はすぐに理解できた。学校で人よりもできるだけ優れた成績をとり、大きな権力と競争力を持つ企業の従業員になることが社会へ出る、社会人になるということだった。その道から外れることは、一人で世界地図にもない荒野を生きることであり、受験勉強をしないで適当にやっていくことは、一生世界の底辺で何かに従属していくことでもあった。それは事実ではなかったが、私たちに社会との間に設けられた障害であったことは事実だ。その被(障)害者意識から抜け出すことは容易ではなかったが、転じて私こそが加(障)害者であったという自覚は、その「障害」は社会との新たな出会いを私にもたらすことでもあったのだ。
2022年10月15日 髙橋淳敏
10月2日(日)おしかけ鍋の会 12時~16時 第475回
場所:カフェコモンズ
待ち合わせ:11時45分にJR摂津富田駅改札前
参加費:カンパ制
参加資格:鍋会参加前後に定例会に参加していただけたらと思います。
※集まってから手分けをして鍋を作りたいと思います。
もちろん差し入れなども大歓迎です!みんなで集まりましょう。