8月の定例会◆(不登校・引きこもり・ニートを考える会)
8月の定例会◆(不登校・引きこもり・ニートを考える会)
場所:クロスパル高槻 4階 第4会議室
当事者・保護者・支援者問わない相談、交流、学びの場です。
参加希望の方は事務局までお申込みください。詳細はこちら
※参加者は中部から西日本全域にわたります。遠方の方もご遠慮なく。
8月の定例会◆(不登校・引きこもり・ニートを考える会)
7月15日(土)の定例会、参加は10名でした。(内4名の方がご家族)
冒頭こちらの話は、代表の友人の話から。重度の脳性マヒがあることで施設で生活をしていた時は、何か失敗しても(腐ったものを食べてお腹を壊しても)スタッフの責任になってしまった。施設を出て一人で暮らすことを始めたころ、一人で外でこけたことがあった。周りの人や知り合いに気をつけないといけない、と言われるかと思っていたら、あほやなと笑ってくれた。自分の責任になるということ。「誰でも危険を冒す権利がある。」
引きこもって家にいる状況では、親の責任になってしまう。お腹が空いて死にそうになることなど体験できるはずもなく、そのだいぶだいぶ手前でご飯が与えられる。自分の存在を実感できない。周り(親や学校や社会)に流されて進学して、何のために勉強してきたのかわからず立ち止まる。失敗したとしても自分で決めて進んだ道じゃないから親のせい。少なくとも親は子のためにも生きているけれど、本人は自分のためでしかないなら、そこにおいてモチベーションは続かない。少しでも家族のために(本当の意味で)自分の役割があって頼られているなら、自分の人生に実感が生まれるのかもしれない。そのためには親は自分の人生を必死に生きる。そうすれば家のことは家族みんなで考えてやっていかないと回らないはずだ。
今は多くの人が一人で生きていく術を見つけてから人と関わろうとする。そうなると、なぜ関わる必要があるのかわからない。1人だけじゃ生きられないから人と関わるという考え方。
子に対して、一緒に生活している大人として、信じて接することがほっておかないということ。介護対象の何かができない人ではない。
社会が若者は何もできないと思っているのでは。
など、みなさまからの話しを踏まえて参加しているみんなで意見を言い合い、考えました。(くみこ)
○8月10日,11日(日)CPAO合宿にておしかけ鍋の会 第483回
☆これまでにも何度か夏の合宿を合同でしたことのあるCPAOの今年の合宿に参加して、その間にニュースタートとCPAOの「周年祭」の話し合いをやります。まだ時間は決まっていません。興味のある方はご連絡ください。
※事務局電話090-6050-3933
場所:和歌山県橋本市のCPAO拠点
参加費:実費負担
参加資格:鍋の会前か後に引きこもりを共に考える交流学習会に参加
8月の定例会◆(不登校・引きこもり・ニートを考える会)
再びカレーレシピ
カレーが食べたいと思って、カレー屋さんへ行く。今夜何が食べたいかと聞かれて、カレーと答える。カレーを食べようと思って作る。スーパーへ行って、カレーに入れる食材を調達する。作り方を変えてみることもあれば、定番の具材や調味料を入れたり入れなかったり、いつしか食べたカレーなのか、まだ食べたことのない試作なのか。本屋に行けば山のように置かれてある料理本、ネットを検索すれば無尽蔵に出てくるレシピ。料理のほとんどは簡単に好きなメニューを好きな時に食べられるように書かれている。料理名と食欲は直結してある。最寄りのスーパーへ行って、陳列している野菜や肉や調味料を購入すれば、カレーでもなんでもできるように書かれている。だが、毎日毎食食べることや、毎度のようにして調理することは、このレシピと食欲のダイナミズムとずれている。痛みかけている食材をどうにかしてうまく食べるとか、畑で取れた食材をおいしく食べる方法は、鍋の中に何を投入すればカレーになるかなどの料理名ありきではなく、名もない料理であったりする。普段、食卓を彩っている料理は、そのような名もない料理がメインである。麺を美味しく食べようと揚げ焼きしていたら、それへ加える野菜の様子で、カレー味にしてみたり、ソースを加えたり、塩味だけにしてみたり、料理の楽しさもそこにある。既成のものを再現するだけではなく、その時にあるものを工夫して経験や知識を活かして調理する。目的はカレーと言う料理を作ることではなく、素材を生かすことにある。豊かさはそのようにしてある。
ところが、スーパーに陳列された食材たちを見てみると、元気のようなものが感じられない。同じような形に育てられ、見栄えは良くても嘘っぽく、レシピ通りになるよう調味料に染まりやすい薄味の表情のない記号のような野菜たち、同じく薄味で原形が分からないように切られてある肉や魚にスポットライトが当てられている。まるで行きたくもないのに行かされている子どもたちばかりがいる塾の授業風景のようである。スーパーに並べられた野菜や肉や魚たちは、生かされるために並べられているのではなく、当然のように料理の中に殺されるためにそこに置かれてあるみたいだ。食うこともままならなかった戦後を過ぎてから、食うことには困らなくなった団塊あたりの世代からは、さらなる豊かさを求めて第一次産業を捨て都市へと流入し、総中流の核家族を形成し、食文化を大きく変える。西洋をはじめとする世界中の食材がこのスーパーに集まり、外食産業も隆盛した。好きな時に、好きなだけ、食べたい料理を食べる。それが、豊かさの代名詞のようになる。欲望はすぐに満たされる。暑くなって部屋に入るなり反射的にエアコンのスイッチを点ける。そういう豊かな生活を手に入れ、手に入れればすぐには手放せなくなる。手放すことを貧しいことであると錯覚してしまう。あなたの手元にある素材が味の薄い癖もないものなら多少は気の毒ではあるが、それでも調味料は少なめにして、その素材をどうすれば美味しく食べられるのか。今までの経験や知恵は無駄ではないので、工夫してみることからやり直せませんか?好きな時に好きなものを食べることはできないかもしれない。だけど、飢えるのでもないのなら、偶然手に入れた歪な野菜を工夫次第で美味しく食べることはできる。
政治は多数決なのでいまだに物量の時代は続くが、経済における物量の時代はとうに過ぎたと考える。今も大量生産大量消費がないわけではないが、ピークは遠く昔の事だった。私たちはこの時代に、豊かさが何なのかをずっと間違えてきた。食えるようになって、さらなる物量の豊かさを追い求めた時に、しがらみと同時に自然の豊かさを断ち切ってしまった。野菜の味を多少損なっても、いつでも西洋カレーが食べられる生活の方が豊かだと思ってしまった。豊かさではない物へと向けられた切りがない欲望は、すぐに対人にも向けられ、欲しいときに欲しい友達を手に入れたり、子どもを思い通りに育てることが、豊かさであると間違えた。心とか人間関係の希薄さが問題になった時代は、物量の豊かさとその思い違いがピークにあった時だった。高度経済成長末期、物量が飽和するほどに豊かなのに、なぜ一人一人が満たされないのか。それはいまだに解決しない。
さて、もう愚問のようになりそうだが、カレーレシピはいつになったら辿り着くのか。それはまず、カレーを作ろうと思っても、ひとまずはカレーを作ろうとしないことが大事なんじゃないだろうか。目の前にある食材、あるいは近くにスーパーしかないのなら、その中で活かせそうな個性的な食材を入手して、活かそうとする中で何度か失敗はしても経験と工夫を重ねていけば、いつかはカレーらしき料理ができるかもしれない。素材を信じて何度裏切られることがあっても、自分の料理の技量や運がないだけであると、常に素材のせいにしないことは重要だ。そして、できたところで美味しければいいのだが、当然それはカレーという料理なのかはわからない。カレーレシピは、カレーを食べたいという欲望を突き放したところに、いつか出来上がるカレーのようなものが都度更新されるところにある。逆に言えば、ジャガイモがないからカレーができないとか、そんなことは全く考える必要はない。そのようなカレーと言う既成概念が、私たちの食を貧しくしている元凶でもある。
2023年7月15日 髙橋淳敏
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