NPO法人 ニュースタート事務局関西

11月の定例会(不登校・引きこもり・ニートを考える会)

By , 2015年10月18日 10:00 AM

11月の定例会◆(不登校・引きこもり・ニートを考える会)

11月21日(土) 14時から (202回定例会)

場所:高槻市総合市民交流センター(クロスパル高槻) 4階 第4会議室

当事者・保護者・支援者問わない相談、交流、学びの場です。

参加希望の方は事務局までお申込みください。詳細はこちら

※参加者は中部から西日本全域にわたります。遠方の方もご遠慮なく。

【高槻市青少年センターと共催で行っています】

「行き詰まり」  髙橋淳敏

By , 2015年10月18日 10:00 AM

高齢者や障がい者福祉、子どもの貧困、非正規化労働など、私たちはかつてよりも孤立させられている。それも「自ら望んで」と分断が巧妙になっている。困って助けを求めようとした時に、かまってくれる人はいないし、そもそも助けを求められない。自分を守るための監視はしても、どうやったら助かるかも分からない。人間不信。とにかくこの状況から脱したい。そんな時には制度に頼るしかないのだろうが、福祉が充実しているわけでもない。国の歳出は限界を超えている、それでも問題の垣根を越えて声を上げていくしかない。いったい、私たちの生をむしばんでいるものは何なんだろうか。生きようとする活力を日々そぐものは何なのか。そのようなことを引きこもり問題を通じて考える日々。

 

どのようにしてまかり通っているのか分からないが、国の一般会計の収入の多くをいつの間にか国債によって、まかなうことになっている。バブル以前はたぶんあまり目立ったものでもなかったのだろうが、バブル崩壊直後1990年初頭の2年間くらいは国債に頼ることのない収入になっている。それ以後は、その時の収入の水準を保つために、税金などで足らない分を再び国債で補てんしだす。そして、今となっては収入の半分ぐらいを国債によってまかなっている。知っての通り、当然借金は雪だるま式に増えていく。手元には1995年からの推移しかないが、この借金は減ったことは一度もない。ここで何が問題かというと、借金の多さではなく、国は今でもバブル期の運営を維持しているということで、それがためにずっと国債に頼るしかない体質となっていることだ。失われた20年というのは単に経済成長しなくなったということではなく、この国の運営方針がその当時のままで、できもしない幻想を追っているからこそ、失われ続けているのではなかろうか。

 

アナリストと言われる人や、高度経済成長期を支えてきた人なんかの話を聞くと、それでも日本は国債を国内で買っているので大丈夫だなんて話をする。その人が国債を持っていて債権を放棄するからというなら話は別(いやもはや利息だけでも大変だ)だが、そうでもないなら結局は未来の人に対する借金となる。国会は毎年特例公債法というのを制定し国債を発行し、未来を日々けずらなければ私たちは今を生きていけない体質となっているし、社会保障などそのような運営を余儀なくされる。今を削っているのではなくて未来を削っている。そして、削られた未来によって現在が借金によって縛られる。まだ見ぬ希望を食って。それに加えて、まだ見ぬ人のためにと道路なんかを作っているのであれば、目も当てられない。現在の問題に国債で得た金を使わず、もうかりもしない博打のような投資金融経済を前に打つ手はないし、もうさんざんだ。

 

国会議員らがやっている議会なんてものは、ここ60年何にも変わっておらず、望む望まないにしても彼らはずっと大企業や財閥を優遇するための政局をだけ戦っていて、われわれはその茶番を飽きるほどにずっと見させられている。彼らにとっての庶民とは、未だに期待値としても大企業で働く正社員のことなのだ。引きこもりの話しなんていうのは、その正社員家族の子どもの問題でしかなく、ニート問題は単に大企業の下請け非正規労働者を増やすための訓練のことでしかない。

 

企業社会で役に立たないものは外へ出る価値はないと、国の運営に任せていれば引きこもりは病者や障がい者とされるのがおちだか、家がなくなればそのような社会で逃げ場もなく、勝ち目のない戦いを永遠と強いられることになる。そもそも、親の家がなければ生きていけない社会で、自立なんてことがどのようにして可能だと言えるだろうか。子どもや高齢者に対しても容赦ない。高齢者の口を封じ、国民教育なんてことがまた叫ばれようとしているが、将来につけを残す国がその借金の返し方を教えられなければ、踏み倒し方しか教育できないはずだ。国が一丸となって逃げ場もなくなれば、いじめるものがそのつもりはなくとも、いじめられるものは死をもって自らの生の決断しようと考えてしまうかもしれない。お金も身寄りもない高齢者は、今後はもっと過酷で孤独な生活を強いられよう。

 

財務省のホームページで、国の一般会計を月収40万円の一般家庭の会計にたとえたものがある。この話、ずいぶん前にも聞いたことがあったが、まさか財務省が出しているものだとは知らないかったので、改めて紹介します。おぞましい家の絵があって図で説明してある。平成23年度、40万円の収入で、75万円の支出、ローンの残高は6348万円だと。ここから読み取れるものは、国の財務状況は大変なので、皆さんできるだけ自己責任で国を頼らずやってください、税金いっぱいとっても文句言わないで、いっぱい稼いでください、てなもんだろうか。

 

私たちはむしばまれた未来を前に今を戦わざるをえない。希望は過去の自分たちによって今も失われ続けている。ギリシャのようにデフォルト宣言することもままならない。行く手は過去となる現在によって完全に阻まれている。

 

家族をひらき

学校を解体し

仕事を分け与え

引きこもりを解放せよ

「世間の目」  長井 潔(10月号分)

By , 2015年10月14日 10:00 AM

ひきこもりの若者やその家族が家族の中でお互いに軋轢を感じていることが多い。親子の軋轢について、何を原因と見ようか悩ましい話になったりする。

日本全体でも家族の中での争いや事件が目につく。2013年の殺人事件検挙件数のうち、被疑者と被害者の関係が親族間である割合は53.5%。2000年以降も殺人事件は減少傾向だが、親族間の殺人事件は上昇傾向だ。最近は若者が親を殺す例が目立っている。この傾向の原因を個々の家族だけに見るのは無理がある。親子の軋轢について、個別の文脈から見るのでは理解不十分であるならば社会の側からの文脈、つまり長引く不況による経済的困窮、などに原因を見るか?

社会に問題はあるが、この国には最終的なセーフティネットとして生活保護の制度もあれば自己破産という方法もある。苦しい選択肢かもしれないが経済面だけを見るなら解決策はある。まして大切なはずの家族の命を奪うなんて事件にまで発展するはずがない。ここには何か飛躍がある。経済の文脈では片付けられない何か別の文脈が潜んでいる。

そこで思いだされるのが「世間に合わせる顔がない」「世間に対して恥じぬよう」という言葉。世間の文脈が今も日本人を動かしているのではないか。

若い世代にとって「世間」はわかりづらい。しかし「空気を読め」と彼らはよく言う。非日常の状況で空気がその場を支配することは昔からあった。山本七平は、太平洋戦争の開戦や戦艦大和の特攻は場の空気によって決定されたと書いている。今は学校の教室にさまざまな空気が充満しており、生徒は息苦しく毎日を送る。現にいじめ自殺は仲良しグループの「中」で起こることが多くなってきた。

実は「空気」とは「世間」の流動化した姿だと考えられる。世間や空気という言葉に相当する英語はない。これらは日本にしかない、日本人を律する文脈だ。「ひきこもり」が日本と一部の外国にしか存在しないことと相似形だ。

ひきこもりの親子の間の軋轢も暴力も、その怒りを本当に向けるべき相手は世間だろう。ところが彼らは親子ともども、世間を前にして恐れおののいている。親子ともに「このままでは世間に合わせる顔がない」と無意識に当然のように考えており、他の考え方や行動の可能性が見えていない。

子供は世間への窓口、あるいは世間を代表する存在として父親を見るから、軋轢の矛先を父に向けてしまう。父親としてはそのイメージを壊さなければ厄介なことが起こりそうだ。自分は決して立派ではないと、大げさに何回も繰り返して表現しなければ子供を圧迫し続ける。自分がいかにいつも外で気苦労を重ねているか、それでも何とかやれているとか、世間をうまくかわしたりさぼったりする方法など伝えるくらいがよい。

若者は、自分の感覚を疑うことが必要だ。あなたをひきこもらせた真の原因が、あなたや家族の中にはなく、社会のいたるところに存在する、目に見えない、不定形の、「空気」を発生させている、この国のかたちにあるのだとすれば。

「近所の目」  長井 潔(9月号分)

By , 2015年10月13日 10:00 AM

前回、家族の中の固定化してしまった文脈が変更されることをきっかけに社会に出た若者の話をした。親子でなくても周囲との固定した人間関係の文脈はある。その関係に息苦しさを感じる場合に、私たちはその文脈を変更できるだろうか。
わが家の斜め向かいに、玄関前に座って道行く人をいつも眺めているおばさんがいる。おばさんはあまりにいつもいるのであいさつがやりにくい。他のご近所さんと話し込んでいることも。自治会ではよく運営に注文を付けるタイプ。わが家に注文が来たこともある。長く伸びすぎた木の枝を切れと言うが、忙しくて放っておくと、ある日勝手に切ってから、切ったよと言ってきた。イラッときたし、あいさつなどもよけいにやりづらくなった。

 

近所の人とはひきこもりの若者が苦手とする「半知り」の人である。以前にニュースタートに通っていたある若者は、近所の人の視線が気になってなかなか外に出られなかった。時間に遅れて来た時「例のおばさんが外に出ていたからいなくなるまで外に出られなかった」と。彼は強迫的な観念が高じているのか、近所で自分に関するよからぬうわさがおばさんを中心に飛び交っている、なども話していた。

わが家の道路の前で座るおばさんもそういう感じの、私にとって厄介な存在だった。
きっかけは、ある日テレビで放映していた空き巣事件に関するドキュメンタリーだった。いわくどのような手口で入るのか、入りやすい盗みやすい家はどんなものか。それを見ながら私はため息をついた。というのもわが家では飼い猫がよく外に出かけたがる。朝に猫が先に出ていると、ガラス戸を少し開けたままにして出かけることになる。不用心だが解決策はない。
よくこんな不用心な家が無事でいるものだ、と思ってはいたが、今回テレビを観て、やっぱりおかしいとあらためて思った。テレビの事例と比べたらもう、この家は絶対に空き巣に入られているはずの家だ。なにゆえ今まで無事に来ているのか?

 

テレビ番組で報じられていた空き巣の例はオートロックの高層マンションだった。しかしこの家はそういう地区にはない。近所の目が光っている。おばさんが平日の昼間から私の家の斜め向かいの玄関先に座って道行く人を見ている。ということは、あのおばさんはこの地区、しかも特にわが家をいつも守ってくれていたのだ、だからわが家は10年以上も空き巣に出会わなかったのだ・・・。

おばさんに対する気持ちは自然に変わった。

 

ある夕方近所まで帰ってくると、おばさんがある男性と口論していた。男性が畑作業のごみを勝手に捨てているのではないかと疑っていた。私は例のごとく聞かないふりをして通り過ぎた。いつもだったらこのようにやりすごすのだが、今回は戻っておばさんに詳しく事情を聞いてみた。あいさつ以外の会話をするのは何年ぶりだろうか。おばさんは一通り心配を話した後で私の家族の近況も聞いたりする。長い立ち話になった。

今後私とおばさんの間にある文脈は「やりにくい近所の人同士」から「やりにくい近所の人をともに懸念する近所仲間」に変わるのではないかと予想している

「親子の文脈」第2回  長井 潔(8月号分)

By , 2015年10月10日 10:00 AM

固定的な人間関係では、過去のコミュニケーションの経験から当事者にしかない文脈が作られるものだと思う。仮にその文脈が不健全なものであったとして、その文脈を変更するなんてことは可能だろうか?

 

ニュースタートに通所で通うようになったある一人の若者は、2年ほどグループでの就労に関する体験など大きな問題なくされてきた。しかしある日突然「いつまでいるかわからない。来月でやめるかも」と言い出した。そこで話し合いの場を持つと、彼が言うのは家族の関係で苦しんでいるという内容に終始する。家族が理解してくれない、本人の話に耳を傾けてくれるような雰囲気がない。両親とも同居の祖父の言動に振り回されている。思わず「それだったら家を出ないと!」と言ってしまった。彼の家族に問題はあるのかもしれないが家族の悩みに終始するところに本人の問題があると見てとれた。

この頃たまたま父母懇談会にこのお母さんが参加された。話をうかがっていると子供の問題に理解のある母親に見えた。私はどうしようかと思いつつ、彼から聞いた話を伝えた。母は困惑していた。
もちろん祖父の癖は母なりに理解しており配慮を十分にしていると。
それでも本人は困っているのです、と私はやや強めに言った。
お母さんは最後まで悩みながら父母懇談会を終えた。私も悩んだ。本人と母親が感じていることの食い違いは私としても判断のしようがなかった。

 

その後通所に出てくる本人の表情が明らかに明るく変わった。聞くと「問題は解決したんです」と。彼は家族との関係が良い方向に少し変わったと感じていた。同時に今月中に卒業したい旨を表明。しかも家を出ることはやめて、家にいて祖父の面倒を見たり家から通える仕事をしようと考えている。「今は話すことがない」と言うので話し合いも継続せず、母も了解しているというので月が変わるとそのまま活動を終えてしまった。その後彼からは学校が順調に進んでいることの報告をいただくことができた。同じ時期に母親からも私たちの支援について感謝しているとのメールがあった。その数年後彼は専門学校を卒業して就職することになる。結局何が起こっていたのか?

 

文脈が変更されたのだ。この母と子のそれぞれは何も変化していない。だが二人の間にあるものが変わることによって子がのびのびと社会に参加していくための扉が開かれたのだ。具体的にはおそらく、母が祖父に対してしっかり対決したのだと思う。こうして親子の間もしくは家族の中で長年培われてきた固定的な関係性が、たった数日で変更されるということが、この親子の場合起こりえたのだ。

ただし通常では文脈の変更はなかなかに難しいものだろう。文脈を変更させる試みはほとんどの場合、本人たちの意図に反して、すでにある文脈を強化するだけにつながりかねない。それでも文脈を変える意思のある親御さんのもとではじめて、ニュースタートの若者への支援は充実するものかもしれない。

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