『376回目の鍋』
6月26日。今年はもうすでに暑いですね。特に水分補給は忘れないよう心掛けていますが、ついつい冷たくして飲んじゃうので次は腹痛を起こしたり……どうすればこの時期を平穏に過ごせるのでしょうか。
本格的な夏が始まる前から早くも夏バテ気味ですが、鍋の会は恒例の行事として今日も行われます。
この日はいつもと比べると少し人数が多く、初めての方も何人かいらっしゃいました。たとえ鍋の会の流れをまだ何も知らない人がいても、当たり前のように鍋会議が行われちゃいます。説明はなるべく簡単に済ませて、実際に体験してもらった方がわかりやすいだろう……と、いつもの流れが自然に出てきているのだと思われます。ただ初対面だと当然その方の好き嫌いまではわかりませんので、そこだけは聞かれてしまう事をご理解下さい。カレーが食べたい! という声があったので、気候的にも悪くないカレー鍋を採用。そこへ夏野菜を推してせっかくだから夏野菜カレー鍋にしちゃおうという提案の了承も得られました。
普通に夏野菜カレーを作る感覚であくまでも鍋風のものを……さすがです。実際、普通にカレー作るよりもさらに簡単に作ってる印象を受けました。夏バテ防止の野菜と一緒に炒めて、とても美味しいカレー鍋の完成です。
そして今回の自己紹介のテーマは「過去の自分に言いたい事。もしくは未来の自分に言いたい事」。
過去の自分にたいして物申す方が多い中、未来の自分に言いたい事があるという方も数人いて、心理的観点から色々と考えさせられるテーマとなりました。考える事は苦手ではあっても嫌いではありません。これからもたくさんの方々との出会い、交流の場として鍋の会を続けていくつもりです。
『377回目の鍋』
7月10日。暑い暑いと言う事でしか自分を保てない季節になりました。
というか、やはり今年は暑くなるのがいつもより早い気がしますね。ここから真夏になる頃にはより暑くなっているのでしょうか……そうだとするとちょっと大変そうです。そんなわけで今回はさすがに扇風機だけじゃ身が持たないと判断して、冷房をつける事にしました。暑い日に冷房をつけて鍋を作って食べる……何だかとんでもない贅沢をしている気になってしまいます。
しかしそれでも今回で377回目となる鍋の会をやめるわけにはいけません。
鍋ではなくパスタにしようとか言われても鍋をやらなくてはならないのです。……いや、よく考えたら例外としてやってない日もたまにあるんで全然そんな事はなかったですね。そんなこんなで今回は最近やるようになってきたサイドメニューもつけて作るという方式に決定。洋風のコンソメ鍋がメインで、サイドに2種類のパスタサラダという献立です。
どちらもあっさりしていてとても食べやすい仕上がりになりました!この季節は夏バテも相まって食欲が著しく落ちる傾向にあるので、こういう食べやすい鍋なら自然と口に入るからちょうど良かったですね。
自己紹介では参加者の一人に司会を頼んでやってもらったのですが、その人の出したテーマ「最近嬉しかった事」で司会本人が一番嬉しそうな出来事を語ってくれるという面白い始まり方をしていました。
場がとても温まり優しい雰囲気になったのもこの司会者の手腕があってこそだと思います。本当にありがとうございました!
ちなみに次回の鍋の会ですが、通常とは違い出張鍋の会となっております。滋賀の瀬田という場所で他団体の方々と共催で鍋の会を開催する事になりました。いつもの会場(ドミトリー)ではやっていないので注意して下さい。
興味ある方のご参加お待ちしております!
8月の定例会◆(不登校・引きこもり・ニートを考える会)
8月20日(土) 14時から (211回定例会)
場所:高槻市総合市民交流センター(クロスパル高槻) 4階 第4会議室
当事者・保護者・支援者問わない相談、交流、学びの場です。
参加希望の方は事務局までお申込みください。詳細はこちら
※参加者は中部から西日本全域にわたります。遠方の方もご遠慮なく。
【高槻市青少年センターと共催で行っています】
真夏の田んぼで死にかけて
(普通なんてどこにある~NPO編②~)
「君はセイホか?」
「セイホ?…生命保険のことですか?」
「生活保護を受けてるかと聞いてるの!」
(なぜそれを聞くの!)
家族持ちの男がNPOで働くと疑われるようだ。給与はフルタイムでも10万からと言われる。それで生活できるのか。わが子がNPOはじめ地域で働くのは不安だという親御さんもいる。働き始めた当初の私自身の課題でもあった。
*
若者への支援活動と病院売店運営のダブルワークを始めたが、これらの給料でも長くは継続できないと感じた。そこで別のNPOを紹介してもらったら「セイホか」と問われた。
高齢者への配食やデイサービスの給食を請けていて、調理担当を募っていた。調理をしない自分には無理だ。ところが施設は自宅の徒歩圏にあった。ならば、と妻を紹介した。自分が働かなくても収入が増えることになった。
(こんな出会いがあるのか…)
またもや地域に人をつなげてもらった。
その後、自分も仕入れを担当した。
「これなら他の仕事と両立できるでしょ?」
仕入れは配食NPOと売店とを兼ねてでき、若者の就労体験の場としてこれら二つの店を使う。三つの仕事は複雑に絡まった。段取り次第で効率よく動ける。
(奇跡のトリプルワークだ)
手取りは20万を超えた。
それでも会社で正規に働けば給与は高いし安定だと人は考えるだろう。
ただ会社も倒産はある。小さくても複数で働くと、一か所がなくなってもゼロにならない。
さらにそれぞれの職場の人と語りあうのが楽しい。会社の人間関係の窮屈さと好対照だ。
何より私には若者の就労先を開拓できた達成感が大きかった。配食NPOには後に何名も就職している。小さな仕事は使命が見えやすく、その働きがいはお金に換算できない。
*
「正社員」を疑い卒業する若者もいる。
「何をしているか見えない」と会社を辞めた若者は自ら小さな仕事をいくつも作った。障害者や性的少数者とともに歩む、意義を感じる仕事をバランスよく組み込む(20代女性)。
ベンチャーで働いていた若者は友人も増えず既製品を消費するだけの生活を卒業した。住まいを自ら整え、事務所をシェアし小さな企画を始めたら多くの同志と出会えた。支出を抑え自らの工夫で働く方が充実する時代だという(「ナリワイをつくる」伊藤洋志)。
お金を語るより、仕事そのものを語ろう。
*
例えば「田舎で兼業農家」などは悠々自適のように語られるが、農家の私が語る農業そのものは違う。
田に穴を開けるもぐらや田ウナギ(地下を這う目のない蛇)を見つけたらスコップで突き瞬殺する。異常繁殖するジャンボタニシは袋に詰めゴミに出す。田を耕すときれいな水鳥がそばに降り立ち掘り返された虫を食べまくる。トラクターはバランス悪く一歩間違えば横転する。真夏に畦刈りすれば熱中症になれるし豪雨で用水路にはまれば死ねる。
農業とは様々な生と死を見つめる業だ。
2016,7,14 長井 潔
定例会報告
6月18日(土)に8名参加(内御家族さん2組)でした。
就職活動についての話題がありました。親御さん方は就活して仕事をするのが当然だという意見でしたが若者達は就活をしていないという人が多くいました。今では「就活うつ」という言葉もあるらしいですね。仕事を前向きに探せなくなった若者が増える傾向は受け入れる側も不十分であるという事だと感じました。
父母懇談会報告
7月2日(土)に7名参加(内親御さん3組)でした。
コモンズの話題になり店内を見たことがないという事だったので、では案内しますよと懇談会終了後に参加された親御さん全員でお店に行きました。営業外の時間で無人でしたが眺めが良いとか石窯を生で見るのは初めてだとか上々の評判が聞けました。次回は営業時に料理の味も堪能してくださいね。
いまのこの原稿を書いているのは2016年7月の参議院選挙前だが、この通信が出るころにはテロでも起こらない限り、選挙の結果はすでに出ている。どうだったろうか、やはり自民党の勝利だろうか。それとも次の選挙や、憲法改正を前に、だめなことはだめだといえる野党政党の爪痕が残っただろうか。長く低迷する政治とともに有権者は弱り果て、この機に乗じて統制を始めようと躍起になっている自民党勢力と、どうしたらいいかはわからないが一部の人の勝手にはさせまいと阻止しようとする野党政党の戦いで、見ていると与党側も一枚岩ではないし、野党側もそれぞれの思惑が見え隠れしていてまとまりはない。といって、第三極がでてくるかといえば、これが弱い。白黒つけなければ、○か×かでないと分かりにくいのだろうが、他が出てくるようでないと、物事は上手くいかないのではないか。今回も与野党混乱している中で、現政権のことを○か×でやろうとした結果、消費税や憲法改正など具体的な争点はうやむやにされてしまったのではないだろうか。アベノミクスは明らかに失敗だが、その恩恵を受けていないことが恥ずかしいからか、そこはみんな白こい顔をしている。この方針に賛同しないのは自分が価値のない人間だと認めるようなのだろう。自分より生活が貧しそうな人と比べて私はまだましだなんて、「足るを知る」なんて言葉でお化粧をしただけの、弱いものいじめの傍観者だと私は思うのだが。もっと豊かに生きたい。さて、この投票行動で何かを主張することができるのだろうか。みなさんどうだったろうか?
テレビなどを批判して「一億総白痴化」といったのは大宅壮一という評論家だが、この人はわれわれが普段生活している高槻市の富田(村)町に生まれ育った人でなじみがあるし、この地域の生活者として先輩である。エッセイなんかで戦後の日本人を一億総被害と形容してみたり、「一億総~」という言い方によって日本の行方を批判的にも言い表したかったのだろうと思われる。「一億総~」なんて言い方はどうも戦争時の「一億総玉砕」からきているようだが、これなんかは批判などではなく軍部や時の権力者からの掛け声であって、現政権が「一億総活躍社会」といったのに近い発言の仕方である。意味としても、私なんかは「一億総活躍!」との掛け声は、「一億総玉砕!」というのと同じような感じで、そんなのたまったものじゃない、そのような立場から言われたくない、このような政権が力を持つような社会からは早く逃げ出さなくてはならんなと思ったのは、私だけでもないはずだ。でも、一方でこのような社会に乗り遅れてはならないと思うのが薄情で、日本や家族を守らなくてはならないなんて思わされれば、自らが利することがなくとも何が敵かもわからず、原発や集団的自衛権や憲法改正案がアベノミクスの掛け声のもとに活躍していくのを、眺めているのだった。一億総白痴化時代に生まれ育ったわれわれの世代だから仕方もないのだろうと、あきらめもするのだが、どうにもやりきれないのが心中である。
引きこもりが始まったのは、一億総中流社会とまで言われた社会に産み落ちた子どもたちが、さてどのように生きていこうかと、大人になろうと社会参加を考えたときである。いいテレビが欲しい、マイホームが欲しい、車が欲しい、誰からも邪魔されず便利でファンタジックな幸せ核家族を作りたい。そのような薄情な物語でも個々人の間で共有されているならばまだ良かったのか。一億総白痴化と批判されようが、皆が幸せになれると思う方へと歩んだのだった。それぞれが私利私欲でも横を見れば、皆が同じように情けない顔をしていてよく分からずとも協力することがあった。そして一億総中流社会が達成され、その申し子たちが社会に出るとき引きこもった。働こうと意欲があった若者までもが、就職氷河期などで社会の入り口ではじかれ、人間不信にまでなったものだった。違うじゃないか、と。みなの所得を増やすために我慢して築いてきたこの社会とはいったい何だったのか。だれも自分や家族のことぐらいしか考えてなくて、仕事でも協力なんかしてくれんじゃないか。働くといったって自分のためにだけでしかないじゃないか。これでは存在自体が迷惑じゃないか。引きこもっていれば、他人に迷惑かけんし、無駄なお金も使わんし、栄養たっぷりの培養液に浸かって夢見がちな生物として生きていくのなら、これこそががまさに時代の理想ではないか。引きこもることこそが社会の要求じゃないか。
そんなようなに思っていた人たちが、でもいろいろとたまらずニュースタートの鍋の会にきて食べて話したり、一緒に生活する中でぶつかりながらも人との信頼を回復していく様子は、とてもドラマチックであったし予想外のことが連続して起こる人間物語であった。それだのに、われわれは、いまでも周りから培養液の中で夢見て眠っていればいいじゃないと、起きるな起こすなと何度も何度も同じ選択をせまられ、いや培養液はいいのだけどもいやいやと、何度もつらい同じ選択をさせられる。それは普通ではない。何かの依存症から脱却しようとしているに過ぎない。そんな選択をいくらやったって、報われないし、友達なんかできやしないし。いや、いや、そうかもしれないけども、いやいやどうにも。社会に出るということは、孤独でいつもパニック状態にあることなのだ。こんな社会に誰がした。混乱はここに極まれり、あとは悪夢の中で事態は決定されていくだろう。ああ、友よ。正気を保つのが困難だ。
2016、7,15 高橋淳敏