NPO法人 ニュースタート事務局関西

「新たな場所について」髙橋淳敏

By , 2024年3月16日 5:00 PM

新たな場所について
ニュースタート事務局関西が共同生活寮を閉じてはや5年が経とうとしています。その時から現在までの期間の半分以上が、コロナの流行したさなぎのような変化時間ではありましたが、のど元過ぎた今となってみれば、株価がバブル以来だとか、就職戦線が売り手市場になったとか、物価の高騰など、「ひきこもり」前夜の30年以上前に戻ってしまったと思うところもあります。少なくとも20年前は「失われた10年」と言われ、その後20年、最近までの「失われた30年」と言われ続けた喪失期は、ようやく終幕することになるようです。もう「失われた40年」と言われることはないと。そんな気(景気)がしています。一方で、日本の経済は少子高齢化が加速して止まることを知らず、低迷し続けています。内需が減る一方だから当然です。人口は増え続けた時期と同様、指数関数的にグラフでは滝のように落ち、減り続けます。こちらは40年以上前から指摘されてきて、予想通りで分かりやすい現実です。「失われた40年」と呼ばれなくなるのは、失われたものが戻ってきたからではなくて、失われ続けていることの方が常態化するからです。30年以上も喪失期を過ごすことになったのは、それ(経済成長)がいつか戻ってくると、それしかすがる思い出がなかったからです。コロナ流行期間に、よりを戻すのが不可能だとようやく諦めることができて、前のバブルのような数値が戻ってきたのは皮肉な感じもします。ですが、バブルもそうであったように、今も概ねまやかしの事態の中にあると考えていいでしょう。現実は一億総中流時代とまで呼ばれ、都市に流入した男女が対になって築いた核家族を支えた恋愛ドラマは崩壊の一途をたどっています。子どもが減り続けるだけでなく、結婚する人たちも激減しました。喪失期間ではなく、恋愛自体や対になることをやめた男女は、全く違った暮らしを考え実践しました。過去の失恋やドラマに浸っていては、自らの人生を棒に振ってしまうことになりかねません。喪失は誰か他の相手を見つけて穴埋めするのではなくて、経済成長やかつての恋愛モデルとさよならすることによって終えたのです。私たちが20年弱やってきた共同生活寮は、この社会が喪失している期間の新たな暮らしの模索ではありました。ですが、共同生活寮の出口は、一人暮らしかその先にある男女が対になる核家族のようなモデルしか見出しにくいのは事実でした。今回新たに作る場所は引きこもり問題に限らず、地域課題を共に考えていく場になります。私たちは30年くらい前のこの活動から、「ひきこもり」その原因は、引きこもっている人の問題ではないと考えてきました。ひきこもる問題は社会の側にあって、個人の能力や努力や気力や病気や障害が問題なのではないと世に問うてもきました。この社会の問題を、今まで以上に直接的に社会や自らの地域にも問う場を作っていきます。今までやってきた「鍋の会」などの交流会もします。「へそでちゃ」という名称になりそうです。とりあえずは、ぼちぼちと事務所も移転しますので、どうぞお見知りおきください。
2024年3月14日 髙橋淳敏

2月の例会報告

By , 2024年2月22日 9:19 AM

 2月17日(土)17名(内家族の方が9組)の参加でした。次回でカウントし始めてから300回ということで、25年以上毎月こうして勉強会を開催してきました。2001年頃からは、引きこもっていた人が出てきやすい場として「鍋の会」、そういう場や人に繋げる役割としての「訪問活動」がスタートしました。鍋会に来ていた人が言ったことですが「ここにきている人は人を信じようとしている人が多い。社会に出ている人の方が不信感が強いんじゃないか」と。そういう、社会には出ているが閉じられた家族の中に他人が入ることで風穴を開けて風通しを良くすることも「訪問活動」の大事な役割の一つです。
 皆さんの話からは。少し前から聞くようになっていましたが、高校や大学の時期にコロナの動きに良くも悪くも巻き込まれて今に至っているという話もいくつかありました。あとこれは昔から多かった話ですが、父親(母親の場合ももちろんあります)と関係がより悪い、口をきかない、顔を合わせないなどです。これは父(母)の方がより「子はこうあるべきだ」(例えば高校→大学→就職など)という価値観が強く、会話ができないと感じているからかもしれません。親が想像するレールに乗らないことはとても勇気のいることで、自分でさせえできなかったことをしようとしている、その子に対して尊敬するところですが、逆になぜ他の子たちのように普通にできないのかと否定してしまっていることが多い。勝手に自分たちの想像できるレールを押しつけてしまっていたことに気づき、非を認められるか。そんな考え方もあるのかと一人の人として対等に接しているかが、子が会話ができるかどうかを判断しているところかもしれません。
 久しぶりに参加してくれた、自身も引きこもっていた経験がある方が他の親御さんたちの話を聞いて意見を言ってくれました。「ゴールは仕事じゃない。10年引きこもった、それも経験になるんです。仕事の前に人と関わること。同い年でもみんな違う生き方をしている。そんなんでいいんかと思うような人もいるし、いろんな価値観の人がいるということを知ること。」そしてこの会の最後の方に「皆さんのお話を聞いていたら、やっぱり引きこもりが悪いことだと思ってるんじゃないですか?そんなことないんですよ。」と。一番傍で見ている家族がこの子はだめな状態だ、失敗しているという眼で見続けていることは本人には伝わっていて何倍にもなって重く受け止めより動けなくなっている。家族だけではなく、学校など社会の方の見方も今のように冷たく締め付けが厳しいままでは引きこもりは増えるばかりだろう。生きにくい社会であることに気づき、周りの大人の知っているレールじゃない生き方をしようと立ち止まった人にこそ、家で引きこもるという手段しか取れなくさせてしまうのではなく、「おー気づいたか!よし。どう生きていけばいいか一緒に考えよう!答えは簡単には出ないし何が正解かもわからないけど自分で決めて進んでみたらいい。何かあったらいつでも集まって話そう。」と言える大人でありたい。(くみこ)

3月24日にお花見鍋会をします!

By , 2024年2月18日 10:01 AM

※日程と場所が変更になりました。

日時:3月24日(日)12時~16時 第491回

○3月のお花見鍋の会

持ち寄りになります。おにぎりと飲み物はこちらで用意しておきますので、みなさん1品を持ち寄ってください。好きなものでも、手作りの物でも、甘いものでも大歓迎です!桜が咲いているかどうかはわかりませんが、初の3月のお花見です(^^)どうなるかわからないのでドキドキですが、みんなで集まって外でご飯食べましょう。

場所は高槻市の芥川桜堤公園です。

初めての方も是非ご参加ください!場所などの説明もありますので必ず参加申し込みお願いします。

場所:芥川桜堤公園(JR高槻駅から約徒歩20分)

待ち合わせ:11時30分JR高槻駅改札口

現地に来られる方は12時までに来てください。

摂津富田周辺から行く方は自転車で行きますので良ければ一緒に行きましょう!

参加費:カンパ制 

参加資格:鍋会前か後に引きこもりを共に考える交流学習会に参加

雨天:新しい場所でやりますので必ず申し込みください。

3月の定例会◆(不登校・引きこもり・ニートを考える会)

By , 2024年2月18日 10:00 AM

3月の定例会◆(不登校・引きこもり・ニートを考える会)

3月16日(土)14時から (300回定例会)
場所:クロスパル高槻 4階 第4会議室
当事者・保護者・支援者問わない相談、交流、学びの場です。
参加希望の方は事務局までお申込みください。詳細はこちら
※参加者は中部から西日本全域にわたります。遠方の方もご遠慮なく。

「失われてはいない30年」髙橋淳敏

By , 2024年2月17日 6:00 PM

失われてはいない30年

 日曜夜に子どもが頭を強打して脳震盪を起こし、次の日も眩暈などがの症状が残ったので学校を休み、朝から病院でCTを撮られた。何も異常がなかったから良かったが、支払い明細に選定医療費として7700円の記載があった。2,3年前にできた仕組みでこの日まで知らなかったが、200床以上ある大病院で診てもらうには、かかりつけ医からの紹介状が必要で、なければ患者が「負担」しなければならないとのことだった。何の負担なのかもよく分からないが、罰則なのか追加料金として選定医療費なるものが、診察の費用とは別に設けられていた。総合病院のようなところではなく、診療所や小病院でできることは済ませ、膨れ上がり続ける医療費を削減するつもりなのだろう。実際、この日も9割程は高齢の人たちだったが、私たちも4時間待たされるほどに、大病院は盛況であった。すぐに病院に行った方がいいと電話口で指示され、救急車を呼ぶかも迷ったが、救急でも診てもらうにも医者が一人しかおらず待たされるとのことで、子どもは歩けたので案内にあった脳神経外科のある近くの病院に飛び込んだ。その受付で開口一番、選定医療費を支払わなくては診ることはできないと、こちらの状況を何一つ聞くこともなく、一方的な説明を受けた。支払いたくないからと、ここで引き返してかかりつけ医の紹介状を書いてもらいに行ってから、戻ることもできないわけで、支払いにしぶしぶ承諾する他なかった。一般内科ならまだしも脳神経外科で、その持病もない子どもにかかりつけ医などいるわけはなく、緊急性があり近くの専門外の医者に先に診てもらう余裕はない、さらにはえり好みしたのでもない提示された近くの病院へ行ったのに、なぜ選定したとして余計に「負担」しなくてはならないのだろうか。年に数回も利用しない病院の、一体何のために国民健康保険料を支払い、年金を支払っているか。このような制度の歪さは、直接的には少子高齢化が、その原因になっていることは想像に難しくない。従来ある制度では上手くいかなくなって久しく、そのためか少子高齢化もとどまりもしない悪循環。このような罰則に似た仕組みを設けて、負担の押し付けや病いとも向き合う気もない制度。無関係であろうと高額な敷居を設け、診ることもできない医療制度はここに完成していた。アメリカなんかでは、親知らずを抜くだけで時間外に関わった病院スタッフの人件費など含めた一回に何十万円にも及ぶ請求をされたような話しを知人から聞いたことがある。それよりかましか?まだ治療をするだけアメリカの方がましなのか?患者クレーム処理中心の現代医療とも言い難い病者には無用な技術革新は進んでも、症状や患者と向き合い治療する医療は、これらの制度からは除外されるようだ。一見して医者は、金の力によって堅牢な診療室の中で保護されているが、当然このような患者や病いと向き合えない制度に侵されている。医者と出会う前に、患者が選定されている。ここから学べることはとても単純なことで、この高度な医療らしい仕組みにいつしか乗っかれるよう必要以上に金を稼ぐかして保険をかけるか、早々とこのような医療制度と付き合うのは諦めて自分たちで病いや死に備えるか。二者択一は嫌だが、少なくともこの30年は、私たちは市場やこのような制度からつまはじきにされ、自分たちでやれというメッセージとしか取れないような疎外を受け続けてきた。それで、そう引きこもり問題こそは、お前らなんかに任せちゃならんと、自分たちでやるんだと言ってきた。そうして、ずっと負け続けてきたのだ。それでも本当に私たちは何もできなかったか、自分もたまに言ってしまっているし、社会も言っているような「失われた30年」だったか?私たち引きこもり世代は本当のロストジェネレーションなのか?NPOとしては25年、私は50歳も手前で、そんなことでもなかったと最近にして思うようになった。
 株価が33年ぶりの高値をつけた。前回に今の値をつけたのは1990年3月のことで、それは日本が経済大国を極めバブルと言われた時代の最期である。さて、では今は景気がいいのか?たしかに物価が多少は上がっている。それで人々は生活が苦しいと言っている。それは何故か、給料が上がっていない。ここ何年も政府は会社員の給料を上げようと躍起になっているが上がらない。個人所得が上がらないから物価は上げられないのに、今度はとうとう物価だけが上がってしまった。後手後手で、さて人々の所得は上がるのか?物価高のため消費が低調で、GDPがマイナス成長、ドイツに抜かれたのはどうでもいいが、景気がいいってどう考えてもおかしい。不景気なのにバブル。国が個人に投資しろとNISAとかなんかで、金を出させ、ついでに自分のことは自分で守れと強迫している。とても危険だ。「投資には多少のリスクはともないますが、ただちに危険なことはありません」とは、いつかどこかで聞いたことのある話しだ。誰がどう見ても嵩張るのは医療費や介護保険料くらいで、少子高齢化で人口減少がこの国の将来不安の根幹、それがムード(景気)である。イノベーションなんて意味の分からない日本で、既存の企業を政府がつぶせないことをハゲタカ投資家たちは良く知っている。守られる株価。人々の生活が苦しくなればなるほど企業の価値は上がる。本末転倒。崩壊するときは一瞬である。何よりも人はその栄華を経験すると、守ろうとする。守ろうとするだけの暮らしに、子どもが入る余地なんてない。とどまらない少子化。こんな終わりの始まりが、1990年初頭であった。それを「失われた10年」と言い、今では30年とも言っている。さて、では今回株価がバブル期に戻ったのでようやく私たちは失われていない時代を、過ごすことができるのかと言えば、そうではなさそうだ。もう一度考え直したい、私たちはこの30年何を失ってきたか。経済成長?だとして、今回に至ってもマイナス成長で消費も減っているのだ。バブルを経て私たちが決定的に失ってしまったものというのは実は経済成長という考え方そのものではなかったか。地方から都市へと人口が流入し、経済発展した最盛期に叫ばれていたのは、関係性の希薄といった課題であった。新しく作った町で、近隣との付き合いもなく、親戚とも離れ離れに暮らす核家族の集合体地区が日本の都市や郊外を埋めた。1995年阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件などで露呈したのも人々の「こころ」であった。世界で一番の経済大国となり、一億総中流の栄華をもって、それでも(だからこそ)満たされない人の「こころ」があった。物質的に豊かになることと、喜びや幸せは全く別だということを私たちはこの時代に大きな犠牲を払って学んだのだった。私たちが失ったのは経済成長ではなく、経済成長をする動機(ムード)そのものではなかったか。ならば、それは取り戻そうとするのではなく、失ったままでよかったのだ。この30年、私たちは失ったものを取り戻すつもりもなく、それでもどうにかして生きていけるかを考え、小さな暮らしを実践してきた。そこに引きこもり問題は今でも核としてある。炭鉱のカナリヤのごとく、この社会で引きこもる心性は、感性も含めた優れた身体性を現わしていた。実体経済が見るも無残な状況の今、私たちのこの失われてはいなかった30年が、問われる思いでいる。
2024年2月17日 髙橋淳敏

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