NPO法人 ニュースタート事務局関西

7月の定例会(不登校・引きこもり・ニートを考える会)

By , 2020年6月21日 12:16 PM

7月の定例会◆(不登校・引きこもり・ニートを考える会)

7月18日(土)14時から (258回定例会)
場所:高槻市総合市民交流センター(クロスパル高槻) 4階 第4会議室
当事者・保護者・支援者問わない相談、交流、学びの場です。
参加希望の方は事務局までお申込みください。詳細はこちら
※参加者は中部から西日本全域にわたります。遠方の方もご遠慮なく。
【高槻市青少年センターと共催で行っています】

なぞなぞ自己責任

By , 2020年6月19日 3:43 PM

 いきなりですが、なぞなぞです。これは今年度5月に「高槻市立小中学校における携帯電話の取り扱いに関するガイドラインについて」という一枚紙のお知らせで、教育委員会や各学校長の連名で保護者に向けて配られたものです。内容は、生徒たちの携帯電話の校内持ち込み禁止のこれまでの方針を見直し、一部持ち込みを解除したものらしいが、さて以下に提示された携帯電話の取り扱いに関する「基本的な考え方」に沿って、教師や保護者が子どもたちにどのような態度で向き合えるかを考えてみてください。重要と思われる部分を枠に囲ってあって、以下(全文)のように書かれてある。

基本的な考え方

(1)携帯電話は、小・中学校における教育活動に直接必要のない物であることから、学校への持ち込みは原則禁止とする。

(2)登下校時に携帯電話を持たせるか否かは保護者の判断とする。

(3)校内での携帯電話の保管は、自己責任とする。

(4)校内での破損・紛失・盗難等に関して、学校は責任を負わない。

(5)ルールに従わずに、校内で携帯電話をかばんから出したり、使ったりした場合は、学校が携帯電話を預かって保護者に直接返却し、学校と保護者が協力して指導する。

 

 この文面からも分かることとして、まず学校教育側が学校への携帯電話の持ち込み禁止を一部解除したのは、昨今の通信技術が盛んになった社会を前提に、その技術の習得や馴れさせるための学習目的ではないことは確かである。登下校時に携帯電話が必要となる理由は、この「基本的な考え方」の枠外に書いてあったが、子どもが登下校時に災害や犯罪に巻き込まれた際の緊急連絡手段や犯罪抑止力のためである。だが、一部の保護者たちが主張したのだろう緊急連絡手段や犯罪抑止力に役立つと学校側が認めたのであれば、(1)のように学校側が携帯電話の持ち込みを原則禁止とするのはまずおかしい。むしろ、全校生徒に携帯電話を持参させなければ指導として示しもつかない。災害発生や犯罪は特定の誰かに決まって起こるのではない。携帯電話程度で安心できるのならば、登下校を地域で見守ってくれている方たちの存在を子どもたちは疎ましく思うことであろう。携帯電話があれば、地域の見守り活動なんて必要ない意見が出てくれば、携帯電話を持たない子どもたちの安全安心は脅かされることになりはしないか。

 そして、この全項から発せられているのは、学校教育側は携帯電話の存在には関知しないとの立場表明である。この紙面は携帯電話を持たせるか否かは全て保護者の責任とする学校責任逃れのためのアリバイ通達なのであった。ここでいう携帯電話とは要するにスマホのことであるが、知らない方も多いだろうが特に今は中学校の部活動などの連絡手段としてLINE(スマホに入れる連絡ソフト)が必須のことも多く、顧問の教師が生徒のLINEを通じて連絡しているのだから、教師たちは生徒がスマホを所持しLINEアプリを入れている保護者や生徒に依存している。それにもかかわらず(4)では破損、紛失、盗難に関しても責任をとらないのは、それが携帯電話でなくとも例えば水筒であっても学校内でそのようなことがあれば、学校側が責任をもって破損紛失盗難の原因に率先して取り組んでもらわなくては困るわけで、いったいどういうつもりなのか。ついでに争いごとやいじめも放置するつもりなのだろうか、教育とはいったい何なのか。学校側が弁償しないといった意味ぐらいのことなのかもしれないが、持ち込みを認めるくせに、無責任な言い方ではないか。

 さて、今回この文面で一番気になった言葉は(3)に出てきた「自己責任」であった。今の学校教育が本音として「自己責任」なるものを教えているのは知っている。それは、私が学生時代であった30年以上も前から続いていて、「建前」「本音」が逆転することはあっても、学校教育は受験学習をベースにしており、他に「教育」としてやることを失い続け、もう涸れ果てていることを知っている。「自己責任」の根本は、学習指導要領に則ったことは教えるが、それ以外は各自勝手にしてくださいという学校側の教育無責任にある。

 たぶん、教師から生徒に対して「自己責任」という言葉は日常的に使われており、今さらこのような文面で見た所で驚きもないが、この文章は保護者に当てたものであり、この直接的な訴えに対しては応えなければならないだろう、それこそ社会的責任について考えたのであった。個人の「責任」は、自分以外の人や社会に向けてあることであって、自己責任のように人や社会から個人に向けられるのであれば、人や社会が個人に対して果たすべき責任として考えなければならない。(3)の文章が携帯電話の保管はちゃんとしましょうという生徒への呼びかけであったり、保管は保護者責任とするなら分からなくもない。でも、ここで生徒に対して自己責任なんて言葉を使うのは、学校教育が生徒に対して果たすべき責任を考えているのではなく、携帯電話の紛失盗難破損も含めた所持利用による結果責任は自分で負えと命令している。そこで(4)項目にも繋がっていくが、紛失しようが壊されようが盗まれようが学校側は、そのような事態が起こったことにすら関知することも放棄すると宣言している。要するに自己責任とは、私たちは知ることやましてやトラブルになった説明をする義務もなく学校側には一切の責任はないとの主張である。ここでも「自己責任」とはその発言主体の無責任を意味するだけの言葉である。(5)では、ここでいう「ルール」というのが何を指しているか明確にされていないし破綻しているが、保護者と協力して指導といっても、そもそもスマホやLINEが子どもたちや教育に及ぼす影響についてすら考える気が微塵もない学校側とどのようにして協力できるのだろうか。さて、このように無責任な学校施設で教育従事者たちは被教育者に何を教えることができるのか。教室管理者たちに同情することもないではないが、それが一番のなぞである。このような学校制度に従属する教育者といわれる者の態度によって、直接被害を受けるのはいつも学生たちである。前代未聞の全国公教育施設停止期間があって、少しは日ごろの反省をする時間があったかもしれないと思っていたが、さらに酷くなるようである。二次被害はすでに教育施設で起きている備えよ。

2020,6,19 髙橋淳敏

5月定例会報告

By , 2020年6月17日 12:30 PM

 5月16日(土)駅前事務所にて開催されました。5名参加でした。
引きこもっている今の状況を否定するわけではないが、家にいて誰とも会わない事を続けていても良くはないだろう。
 親と子の会話、コミュニケーションをどうすればよいか、話しかけても返事が無い、怒るなど。引きこもりの状態にある子と親が良いコミュニケーションを取れるという事は無い。良い関係になるには心理的にも物理的にも距離をもつ必要がある。
 一人暮らしについて。外とのつながりがなければ急に一人で暮らしても孤立してしまう。親にできる事とは、外に繋げる、背中を押す。どうすればよいのか、タイミングがあるのかなど話し合われました。

「日常と生活~施設論序章~」髙橋淳敏

By , 2020年5月29日 6:10 AM

 暖かい蕎麦を作ろうとした。5月にしては少し寒い朝だった。昼ごはんの仕込みに揚げさんを炊き、かつお出汁を取っていた。それを横目で見ながら、朝ご飯の後始末をしていた上の子が「温かい蕎麦?冷たい方が良かったな」と言った。そうか、ざる蕎麦かそれもいいと思ったが選択を間違ったな、もはや引き返しにくい手順を考え直して「今日は涼しいし、これから温かい蕎麦は食べにくくなるし」と言い訳をした。それはもう一方的な温かい蕎麦宣言となっていた。当然、上の子からの返答はなかった。加えて、いい機会と思ってしまい、夕食に食べたいものを聞くと、いつものように「ない」とだけ返ってきた。もし、昼ごはんを仕込む前に「温かい蕎麦か冷たい蕎麦どちらがいいか」と聞いていたら、どちらでもいいと答えたのか、冷たい蕎麦と答えたのかは分からない。いずれにしても過ぎた質問を繰り返すことになってしまった。最近は、こどもの分も含めて、昼夜と調理する機会が増えたので常にレパートリーというか作り手の食欲満足で、こどもに何か食べたいものはないかと聞く機会は増えたが、そのような時の返答は大体口を揃えて「ない」ということで、4月後半にはもう諦めていたのだった。だけど、例えばこどもに玉子焼き(明石焼)しようと言うと「それがいい」と返ってくるだろう好みを少しは知っている。それで玉子焼きを美味しくしようと、3月にはじん粉を明石の魚の棚まで調達しに行った。近くに寄ったついでではあったが。さらには、こどもは肉や魚介類など食べたいと親に要求しても実現しないだろうメニューを知っている。例えば、下の子はここ3、4年くらいカニを食べたいと言っているが、食べられていないというか、まだまともにカニを食べたことはない。カニカマくらいは食べているが、親のカニに対する欲目なのか、予算とシチュエーションがそれを許さなかった。いや、食べる方がいいとは思っているが、ここまできたら親から与えられなかった食材があるのもいいだろうとか考えたりで、そのような逡巡含みで、我々の食卓からカニ食を遠ざけることになっていた。一方で、夕食を囲いながらカニの話題で雰囲気がまずくなることもあれば、盛り上がることもある格好のネタになった。しばらくは。

 

 食欲は作り手の欲望でもある。多くは親が作り、子が食べるのだが、そこで子は自らの食欲を満たそうとしながら、親の欲望を知る。親はこういうものが食べたいのかということと、こういうものを子に食べさせたいのかということ、食欲に向き合う態度まで、子は知ることになる。そういった日常は、親から何か食べたい物はないかと聞かれて子が「ない」と答えることでもあり、親が子の食欲に応えきれなくなることでもある。外食はそういった日常の束の間の休息でもあり、他者の欲望であり自身の食欲を知ることでもあったわけだが、今回は学校給食も含めてその機会がなくなった。子の食欲はあらゆる親の選択肢の中で「ない」と答えることであり、我が家にとってはカニのように家では叶わないものとなったのだった。この仄暗い光で引きこもり家庭を照らして見るならば、食欲に限ったことではない。親は子に対して考えられるだけの外へ選択肢を提示することとなるが子は「ない」と答えるしかなく、子は今まで経験したことのないことを欲しながらも家では叶わぬことになる。食欲の担い手である子が外へと出ていかなければ、家の施設化は避けられなくなる。施設とは、人の生活を守るための設備ではあるが、風通しも悪く統治や管理などと結びつくならば、力を持つ者が施しをする場や設備へと、その本来の機能へと純化し、それぞれの欲は自粛される。家は不断の風通しによってしか施設化を免れないのだ。台所や備品など設備を使う権利が家人に保障されているのは当然のこととしても、家以外での調理や食べることのできる場が担保されていなければ、家人の生活の自由は保障はされない。プライバシーを保護するとしても、それは人を部屋の中に閉じ込めておくことではない。部屋や家以外での食のための活動を保障していくことである。

 

施設は大概の場合は閉じられている。施設内から開くことを常に努めていなくてはならないし、それでも外からの来訪者(他者)がいなければたちまちにして閉じられてしまう。今回の都市封鎖なる事態は、病院施設の崩壊を危惧するところから始まった。そもそも感染拡大のための対策は医療の仕事ではない。日常から医療従事者が病院という大施設に隔離されていたことが、この大きな事態へと発展したと考える。公民館なんかは便利な施設ではあるが、そこでしか集まりができないとなるとたちまちにして自由は奪われてしまう。それでも公民館でしかできないならば、それを使う人たちとの常なる協力が必要であったろう。今の核家族の中での親子関係が良いか悪いかは別にして、施設化に抗うような努力がされているとは思えない。今回、公民館自体が率先して長期間に渡り閉鎖されたのは、そこが人の生活を守るための施設ではなく、権力者が施しをする場や設備であることの証明ではなかったか。

2020年5月28日髙橋淳敏

6月の定例会(不登校・引きこもり・ニートを考える会)

By , 2020年5月17日 7:24 PM

6月の定例会◆(不登校・引きこもり・ニートを考える会)

6月20日(土)14時から (257回定例会)
場所:高槻市総合市民交流センター(クロスパル高槻) 4階 第4会議室
当事者・保護者・支援者問わない相談、交流、学びの場です。
参加希望の方は事務局までお申込みください。詳細はこちら
※参加者は中部から西日本全域にわたります。遠方の方もご遠慮なく。
【高槻市青少年センターと共催で行っています】

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