NPO法人 ニュースタート事務局関西

7月例会報告

By , 2025年7月27日 6:54 PM

 7月19日(土)10名参加(内家族の方は5名)でした。先月の通信から、重度の障害を持った自分の子の生命維持装置を外した母親の話について。自分一人で育てなくてはならないという義務感が母親には生じていたのではないか。障害を持った人を殺そうとする社会。母親がそういう社会に対して向き合ったり、誰かと話したり考えたりする時間、余裕があれば変わっていたのかもしれない。人に任せることができる社会であれば。母親は裁判で「介護疲れが理由ではない」と言っている。ということはそういう社会に苦しめられたということ。社会への復讐だったのではないか。
 皆さんの話から。小さいころからの知り合いには会えるが引きこもっている状況になってからの新しい出会いには一歩が出ない。しかし知り合いたちは新たな出会いをしているわけで、いつまでも同じように会えるのかという不安。どうして働きたくないという気持ちになるのか。引きこもっている状況では働くこと、新たな出会いに希望は持てない。無理のない現実的な関わりを少しずつでも持とうとすることで、外へ向けて一つ一つ考えていける。働かなくてはならないなどの少し先の悩みではなくて目の前の具体的な、どんな格好をしたらいいのか、など。一人でぐるぐる悩んでいる閉塞感から救い出してあげたいという親の気持ち。親は本当のことを言うことが大切。子どものためになりそうなことや良いことばかりではなく、自分の生活の中で上手くいかないことも辛いことも楽しいことも、子のことを一人の人として話す。高校の教師をしていた方の話では、今の高校生には自由な場所がなさすぎるという話。聞いているとなんだか先生もずっと見張られていて自由がないようにも感じた。(くみこ)

8月の定例会◆(不登校・引きこもり・ニートを考える会)

By , 2025年7月20日 10:01 AM

8月の定例会◆(不登校・引きこもり・ニートを考える会)

8月16日(土)14時から (317回定例会)
場所:クロスパル高槻 4階 第4会議室
当事者・保護者・支援者問わない相談、交流、学びの場です。
参加希望の方は事務局までお申込みください。詳細はこちら
※参加者は中部から西日本全域にわたります。遠方の方もご遠慮なく。

8月の鍋の会は持ち寄りです!

By , 2025年7月20日 10:00 AM

8月の鍋の会

日時:8月10日(日)12時~16時 第508回

〇この日は毎年真夏の恒例、持ち寄り鍋の会になります。手作りの一品やお勧めの一品など皆さん持ち寄ってください。おにぎりと飲み物はこちらでも用意しておきます。

一番熱いこの時期はみんなで集まって持ち寄ってくれたご飯を囲んで食べましょう。

初めての方も久しぶりの方も大歓迎です。参加される方は必ず申し込み下さい。

場所:「へそでちゃ」(JR摂津富田駅から徒歩15分弱)

待ち合わせ:11時45分JR摂津富田駅改札口

現地に来られる方は12時までに来てください。

参加費:カンパ制 

参加資格:鍋会前か後に引きこもりを共に考える交流学習会に参加

「障害児殺しの思想」髙橋淳敏

By , 2025年7月19日 5:00 PM

障害児殺しの思想
 今年の初め、1月に福岡市で痛ましい事件があった。母親が7歳の子(心菜さん)の人工呼吸器を外して窒息死をさせた。生命維持のための人工呼吸器を外すと心菜さんが死ぬことは分かっていたわけで、母親は殺人罪に問われた。先日、その母親を被告とした初公判が、福岡地方裁判所で開かれた。検察は冒頭陳述で「被告は主に娘の介護を担っていて、娘の治療の話(音楽療法など)をした際、親族から『そんなことをして意味があるのか』と発言されたほか、事件の2日前、夫に介護の手伝いを頼んだ時に『全然眠れん』と舌打ちされたことなどから、『私と娘はいらない存在』と考え、無理心中を考えるようになった」と主張した。一方の弁護側は「娘は国に難病指定されている病気(脊髄性筋萎縮症SMA)で、その中でも最重症の患者だった。被告は自宅で娘を介護する中、夫の言動に強い怒りが収まらず、過去に娘に向けられた言動で深く傷ついた出来事を思い出し、強い孤独感と疎外感が増幅し、娘との心中を考えるようになった」と主張した。検察と弁護士は、夫に罪の一端を押し付ける内容も、どちらか分からない似た主張で、起訴内容については争われなかった。公判が始まったことは報道されてはいるが、争点もなく世間ではあまり話題にもなっていない。このまま大した審議もされないまま、母親に対する情状酌量の余地についての量刑が話し合われて、この事件はすぐに終わって人々の記憶からは消えるだろう。この殺人事件とされる社会や母親以外の人の罪は問われることもなく、そこで暗に免罪された分だけは母親の量刑が軽くなることで殺人罪は希釈され、結果誰も責任もとれずに心菜さんの死は仕方ないこととして終わるだろう。事件前と変わらず、母親の中にだけに心菜さんは閉じ込められ、事件も心菜さんも個別的なこととして、社会的にはなかったことにされる。私はこの事件でまた別ではあるが、1970年の重度心身障害児を絞殺した母親とその後の母親への減刑嘆願運動と、9年前に起きた相模原障害者施設殺傷事件を思い出すことになった。
 1970年に横浜市金沢区で起きたのは、30歳の母親が2歳の脳性まひの子を絞殺した事件である。家族は夫と子供の5人暮らしで、4歳の次男も脳性まひであった。重症児施設に入院を申し込んだが断られ、将来を絶望して犯行に及んだと報じられたこともあって、殺した母親への減刑を嘆願する運動が地域で生じた。生きることを社会から否定されている障害児を殺すのはやむを得ないこととして、当時は貧しかった福祉行政が責任を取るべきだと、母親の刑を軽くして欲しいと近隣住民が訴えた。今よりも福祉制度が拡充されてなかったこともあって、障害児を持つ母親に対する地域住民のもっともな主張のように見えた。しかし、その後に「青い芝の会神奈川県連合会」の脳性まひの当事者たちから、住民による減刑嘆願運動への抗議があり、この事件はさらなる社会的意味を持ち、今でも記憶される事件となった。「マスコミ・キャンペーン、それに追随する障害者をもつ親兄弟の動き、そしてまたこれらに雷同する形で現れる無責任な同情論は、この種の事件が起きるたびに繰り返されるものであるが、これらは全て殺した親の側に立つものであり、『悲劇』という場合も殺した親、すなわち『健全者』※1にとっての悲劇なのであって、この場合一番大切なはずの本人(障害者)の存在はすっぽり抜け落ちているのである。このような事件が繰り返されるたびに、我々障害者は言い知れぬ危機感を抱かざるを得ない(横塚晃一1975)」。障害者を殺しておいて母親が減刑されるだけであるのなら、障害者は殺されても仕方がない存在ということになる。自らの存在を挺した脳性まひ者から、社会への抗議であった。彼らは福祉制度を充実させろと叫んだのではない。自分が得体のしれない何者かに殺されること、障害者がこの社会によって殺されていることに抗議した。彼らにとっては福祉制度も障害者を殺す「健全者」社会を強化することでしかなかった。この度の事件は、減刑嘆願運動も起きないほどに、検察側の主張の中にさえ母親に対する「健全者」社会の同情が含まれており、皮肉にも福祉制度が拡充されたことも相まって、子育てやケアの責任を今よりも母親に押しつけていた50年前より、社会における障害者の存在は希薄になっている。
 現代の日本社会には役に立たないとされる人や障害者は、価値がないので生きている意味がないとする根深い考え方がある。「~ファースト」などの排外主義の中にも似た思想が含まれている。社会の益になる外国人は良いが、少しでも損になるような外国人はだめだとか。「害」となるならなおさらだ。国家や国益ファーストから必然的に要請される優れた人種を残そうとする優性思想が行きつく考え方である。相模原障害者施設殺傷事件を起こした加害者も「心失者※2には生きている価値がない」として、元職場である知的障害者福祉施設に忍び込み、一人一人話せるかを確認しながら45人を殺傷した。今度は自らが国家に殺されるのを待つ死刑囚になっても、その考えを変えてはいない。彼は「障害者は不幸を作ることしかできない」と、障害者を殺すことが日本国や全人類の不幸を抑えることととして、国に対して減刑や報奨金を要求する犯行予告手紙を衆議院議長宛てに送付していた。障害者を、社会から障害を与えられている者ではなく、社会の「害」になる者とした。引きこもり問題に関わる私たちにとっても、この優性思想や価値のない人間は生きている意味がないという考え方によく遭遇する。働かざる者食うべからずとか、大学に行かなければろくな仕事につけず人としてまともには生きていけないとか、そのように役に立たないとか、生きている上での価値を、心の中に埋め込み、日々身体に刻んでいる。引きこもるという行為は、能動的にはそのような社会から逃げていることなのだ。親や学校や職場にあるそれらの価値を内面化すれば、人と比較することによって、今の自分には生きている価値がないとかあるとかと考える。青い芝の会は、善意とも思えた減刑嘆願運動の地域社会の中に、まざまざと優性思想を見せつけられたのであった。それは今回の母親の実父の態度にも表れている。何の役にも立たない子を一生懸命育てようとして「何の意味があるのか」と、障害児の育児や教育を無駄なことだした心菜さんの祖父は、今の社会を代表している。この母親の実父が罪に問われることはないので、その考えは変わらない。むしろ、今でも実の娘である母親の方、健全者を溺愛しているのだろう。大事な娘が何の役にも立たない子を、懸命に育てているのを見るに見かねて、思わず出た本音である。
 被告の母親は「心菜が大きくなってきて、盆や正月に会いに行かせたとき『大きくなったね』と実の父に声をかけてもらいたかったが、(実父は)ため息をついて『これからどうするね』と言われて、心臓を抉られたような感じになってしまって・・。なぜ、心菜は病気で頑張って生きているのに、私は私なりに頑張って育てているのに、身内はそんなことを言うのだろう。心菜のことはいらない存在なんだって。暗いトンネルに落ちたみたいな感情になって・・『心菜は、いない方がいいんだったら、私も生きる意味がない』となって、一緒に死のうと・・」このように怒りが悲しみに変わった場面があったと証言した。それまで信頼していた夫とも喧嘩すればよかったと。母親は、今でも信じられないことをしてしまった、心菜に会いたい、一生罪を背負って悔い続ける気持ちがあると語る。オムツを変えたり、綺麗な足をストレッチしたり、ほっぺをギュッとしたり、時間を取り戻したい、あの生活に戻りたいとも言って、介護疲れが動機ではないと証言した。母親も心菜さんを溺愛していた。一体、何が原因で心菜さんは生き続けることができなかったのか。夫の言動に強い怒りが収まらなかったことを、母親は強い孤独と疎外感の原因と語っているので、母親の証言からは、心菜さんの父親や祖父への怒りはあるようにも見える。心菜さんの生を否定され、心菜さんを守るために必死で生きていた母親の生すらも否定された気にはなっただろう。夫は「妻に娘のケアを任せきりで負担をかけた。一人で抱え込ませた。妻を刑務所に入れたくない」と母親の減刑は求めても、そこで自分も関与していたはずの心菜さんの死を後悔しているのかは分からない。心菜さんが亡くなったことを直接悔いているのは、最後にも「娘の未来を奪って申し訳ない気持ちでいっぱい」と語った母親だけのようにも思える。
 母親だけが悪いのでもなければ、この事件は社会問題である。引きこもり問題が、個人の問題ではなく社会問題であるとここで書くのと同じような理由で、この事件は社会の問題を明るみにする。間違いを正さなくてはならないのは、人が生きることの優劣を組み込んだ社会であって、司法で母親個人を罰したり、ましてや減刑したところで、社会は無反省に、問題ある性質を助長するしかない。だからこそ、この問題の当事者として、私たちがそれぞれにやれることはある。では母親は何も問題はなかったのか、引きこもる人には何も問題がないというのか。そんなことはない「ひきこもり」として問題はなくても、引きこもり問題がある社会に生きる当事者であるように、心菜さんの母親ではなく、障害者が死んでも仕方ないとする、障害児を殺す社会に生きる問題の当事者である。先の青い芝の会の横塚は「泣きながらでも親不孝を詫びながらでも、親の偏愛を蹴っ飛ばさねばならないのが我々の宿命である」と言って、子を置いて死ねないなどと一人で抱えこむ母親の義務感が、親子心中や障害児殺しを引き起こすと、母親が自らを殺しにくる存在と考えていた。だが、2歳や7歳の子には親の偏愛を蹴っ飛ばすのにはまだ無理がある。ならば、親が子と離れようとすることが必要だったのではないか。周りが協力的ではないのは、優性思想が蔓延っている社会では、それこそ仕方のないことである。親類や世間に人でなしと言われようが、母親としての娘の介護はできる限り他の人に任せるかして、母親ではなく障害児を殺す社会問題の当事者として、他人と一緒に社会を変えていこうとすることが大事なのではないか。夫もずっと協力的ではあったようだが、善き父親を演ずるよりは、もっと親類や他人に助けを求めるべきではなかったか。こういった場合福祉制度が問題になるが、先の二つの事件から見ても、それについてはここに書く余地はないが問題の本質はそこではないことはくぎを刺したい。最後「どういう人生を歩んでいきたいですか?」と、事件以外のことを質問した裁判官に対して、母親は「可能であれば、心菜のような病気で生まれた子どものお世話をしつつ、私のように悩みをため込まないように、はけ口を作る仕事をしたいと思います」と答えた。社会問題としては全く不十分な結末ではある。この文章を書いている7月18日に判決が出た。介護疲れが動機ではないとはっきりと証言した母親に反して、心菜さんの殺害理由は疲労であるとした判決は、執行猶予付きで実刑は課されなかった。母親を被告とする裁判はこれで終わりとしても、この事件がこのまま終わってしまうのであれば、やはり障害児は殺されてしかるべき存在となってしまう。でなければ、この事件の責任は一体どう取るというのか。
※1健全者:一般的には健常者だが、青い芝の会では批判的にもそう呼んだ。※2心失者:造語のようであるが、彼が意志疎通できない者のことを指す
2025年7月19日 髙橋淳敏

7月おしかけ鍋の会報告

By , 2025年7月14日 8:18 PM

 7月13日(日)6名参加。この日はコロナ以来5年ぶりに「おしかけ鍋の会」を開催しました。おしかけ鍋の会とは、いつもの場所でやる鍋会とは異なり、個人の方の家で集まりをするものです。この日は鍋の会にも何度か参加したことのある5名が電車に乗って集まりました。最近ニュースタートで旅行なども行けていなかったので久しぶりにみんなでお出かけという感じで、どうなるかドキドキもするし、楽しみでもありました。開催するお家の方が車で駅まで迎えに来てくれたので2人だけ乗らせてもらって行きしなにスーパーで買い出しもしました。今日はたこ焼きにしようと計画していたので、たこ焼きの材料と飲み物を買い家に向かい、駅から別で向かっていた3人と合流しました。たこ焼きの良い所は切るものが少ないところですね(^^)それは同時に野菜が少ないということでこの日は野菜より小麦粉をたくさんおいしく食べた日でしたね。少ないからこそ何度も会ったことのある人たちでしたが、また改めて一人一人の話をゆっくり聞けたり、目の前でたこ焼きひっくり返しながらお腹一杯なのについついたこ焼きつまんでしまいながら。自己紹介のテーマは「もし今ガンなど病気を宣告されたとしたらやりたいこと」を話しました。聞いてみると、別にそんなこと宣告されるのを待たずに今直ぐやればいいのではということも多かったのですが(髪の毛を染めたい、なかなか会えない人に会いに行きたい、富士山に登りたいなど)でも今すぐはなんやかんや理由をつけてできなかったりするんですよね。他には、そういう時こそ忙しくせず、日常の何気ない時間を過ごしたいという意見も。お腹パンパンでゆったりとした時間を過ごしていると急に大雨が降ってきてこれが止むまでは外に出れないねぇと空を見ながら片付けをしました。普段の鍋の会では動きがいつも通りで予測がつくのですが、おしかけ鍋の会だと予測不可能なこともあり、やっぱり面白いなと思います。例え5,6人でも家族とだけで過ごすのとは違うどたばたや声のざわざわ。少しでも家族の中に違う風が吹き込めばいいなと思いながら過ごしました。これからもいろんなお宅におしかけて集まりができたらいいなと感じました。うちに来てくれてもいいよという方がおられましたらぜひお知らせください!!よろしくお願いします。(くみこ)

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