NPO法人 ニュースタート事務局関西

『訪問覚書』‐鍋の会について

By , 2012年5月1日 4:15 PM

NPO法人ニュースタート事務局関西と出会い、訪問活動にたずさわることとなり3年になります。私は一般に言われる定義による「引きこもり」ではないのですが、当初大学を卒業したばかりだったので、ニュースタート事務局関西との出会いは、今までと違う形で社会に関わっていく契機になったと考えています。

それからまだ3年と少し、そのような若輩者の覚書なぞとお思いになるいかもしれませんが、年輩の方は今の若者の生態の1事例としてでも、同輩の人には恥ずかしげもなく身をさらしたある提起としてでも読んでもらえれば有り難いと思います。

私にはこの覚書を綴る一つの思いがあります。引きこもりを抱える家族への訪問活動をなんらかの形にしていきたいと思っています。一つ分かっていることは、それは誰か1人でなしえるものではないといことです。私には近くに訪問スタッフがいて、ニュースタート事務局関西があって、社会があって、そしてなによりも引きこもり当人とその家族があります。ここでは形になったものではなく、人に読まれることを前提に、覚書というスタイルで、しばらく書き綴っていきたいと思います。いつの間にやら、型にはまっていたりしていると思いますが、その点はいつか会えた時にでも話ができれば嬉しく思います。

覚書にしては少し月日をさかのぼりますが、ニュースタート事務局関西と私との出会いは、今も続いている「鍋の会」という集まりでした。就職活動をせず、大学を卒業して、その地にとどまるのもなんだからということで、兄弟を頼って大阪にきました。そんな身の程にも関わらず、今考えると少し過剰とも思えるある確信がありました。「これと思えるものをささやかにでも続けていけばなんとかなるものだ」と。

それでまず取り組んだことが散歩です。ずいぶんと呑気に聞こえるかもしれませんが、それをけっこう真剣に取り組んでいたと思います。新しい地で、近くに知り合いもほとんどいなかったので、人間関係もいたってシンプルでしたし、そんな中で自分が何を感じ考えてもいるのか、要領よくそれなりに都合もよく、解釈していったように思います。

こういった時の心境は「引きこもり」の心境と似ているかもしれません。後でも語りたいですが、「引きこもり」その行為自体が悪いわけでなく、その状態を当人あるいは家族が悲観的にしか考えられない所に、他者の介在が必要にもなってくると考えています。私の場合、大阪の地を散歩することが、そのゆるやかな刺激が大きな助けとなりました。そんな中、パソコンのメールなどで交流していた数少ない知り合いが「鍋の会」に誘ってくれたのです。

「例会(引きこもりを考える会)」は2年程先にやっていたものの「鍋の会」は京都で行われていて始まったばかりでした。当初は具材が持ち寄りだったり、引きこもり当人たちもたくさん参加してはいるものの、ただ呑みただ飯を食えるということで京大生が押し寄せたりと、今よりも混沌としていたように思います。

初めて参加した印象は、変わった人(どちらかといえば大人)が多いなあといったようなもので、「引きこもり」という言葉もあまり馴染みがなかったし、ましてや助けようという思いもなく、共感するというのも違うかもしれませんが、その時なんらかを理解したのだと思います。自らが抱えているテーマに関心をもった。鍋を囲って食べるという、飾り気のない行為がより根源的な共有を引き起こしたのかもしれません。

鍋の会は、時に、強要はされないものの話さなくてはならないムードがあったりして、つらかったりもしますが、基本的には食べていればいいように、3年間参加し続けて、そう思っています。お腹を空かせて参加するのが何よりも大事ではないかと。それは、どれだけ大きな問題を抱えている当人であっても、家族であっても同じだろうと考えます。

「鍋の会」は現在もカンパ制で運営されていますが、参加費をとって有料化した方がいいなど、いろいろとその運営の仕方なども含めそのあるべき形態について話し合われてきました。その度に、そして訪問先の当人たちに来てもらうべく話そうと試みる度に、その魅力について考える機会がありました。

その魅力の一つは、誰もが主役になる可能性を含んだ場であるということでないかと私は考えています。一応、ホームページなどでグループセラピーと紹介されているものの、そのセラピーの概念は心理学などで使われるよりもっと広域であるかもしれないし、悪くいえばデタラメだと考えています。デタラメというと言葉が悪いかもしれませんが、まず先に理論のようなものが背景にあってその元に治療とする集まりが設定されているのではなく、とにかく集まってテーブルを囲む、そのことが素朴にも成立しているということが治癒に繋がっているといった感じでしょうか。

 
もちろんそこにはいろんな人の配慮というようなものがあります。今では料理を担当する人がいます。ただ、人にもよると思いますが、受け身で参加し続けても、とりわけ何かがお膳立てされているというわけでもなく、面白くないかもしれません。参加する人も毎回変わったりもするので、その雰囲気も違ったりもします。

かくいう私も、今日はなんだかしんどいしつらいなあという時があったりもします。今では自分の調子を占う場であったりもします。と、「鍋の会」について語りつくそうと試みるのですが、なかなかそれが難しいのです。今では、そうであるからこそ良いのであると開き直ったりもしていますが、今までのニュースタート事務局関西の多くの活動がそこから派生しているといっても過言ではないだろうから、これからも「鍋の会」について語っていくことは必要になってくるでしょう。

参加する人それぞれに印象も違うと思いますが、訪問活動において、当人に来てもらう所としても、今でも良い場であると考えています。

2006年 高橋淳敏

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