5月例会報告
5月17日(土)8名参加(内家族の方は4名)でした。1998年頃「引きこもり問題」といわれたのは、競争社会や受験勉強の後に表れてきた大学生の不登校など社会の問題を指したものだった。この問題の当事者は、社会の側だった。しかし2001年ごろから「ひきこもり」とは名詞として個人を指す言葉に変わっていった。ひきこもりの定義などもできた。この当事者は引きこもっている本人であり、自己責任などの言葉もよく聞かれるようになった。ではもし引きこもりの問題の当事者が社会の側に、引きこもっている人以外の人であるなら、引きこもっている人は自分一人ではその問題は解決できない。でも何もしなくていいのではない。なぜならその人は自分以外の引きこもっている人にとっての社会の側であるのだからその問題のために動かなくてはならない。そのために出て動く。誰かがなんとかしてくれるわけではない。人ごとでもない。自分が当事者だと言い切って人と話をしていく。
皆さんの話から。子に「死にたい」と言われることについて。子にとっては学生時代に学校に行く以外の生き方なんてわからない。学校に行けてないということはもう人じゃない。生きていけないぐらいに感じてしまうからだろう。一人でこもっている状態ではその気持ちは変わっていかないだろう。家族以外の他人と出会い、同じように悩んでいる人がいることを知ったり、自分の親とは全く違う生き方をしている大人を実際に見ることがとても大事なことだろう。
親は子にさせたいこと(勉強や学校生活など)があるから、やりすぎてしまう。家にいたら勝手に目の前にいろんなものが出てくる状況では自分が本当に何がしたいのかわからなくなる。
100%じゃなくてこれくらいで「いっか」「まぁいっか」を重ねていけるといい。(くみこ)