2月例会報告
2月15日(土)11名参加(内家族の方は6名)でした。引きこもりは個人の問題ではない。でも本人は自分の能力がないと思っている。本人を変えるのではない。周りの関わり方がおかしいことに気づくことがまず大事だろう。例えば子どもが社会に出ようとした時の接点の一つである就職活動での面接について。売り手市場だった頃は、働いてくれる人が必要だから企業の方から迎えに来るようなコミュニケーションだった。面接などでも、はい、いいえで答えられるようなやり取りで良かったり、働きだしてからも辞められたら困るので手取り足取り教えてくれたり周りの手厚い関りがあっただろう。それにはもちろんお節介だったり嫌な面もあっただろうが、少なくとも社会に出ようとする若者は必要とされていた。嫌なことを嫌だと言いやすいなど人間関係がやりやすかったのではないか。しかし就職氷河期などの世代になるとそのコミュニケーションは180度変わっていった。買い手市場となり、必要な人数に対して働きたい人の方が多く、どれだけ他の人より自分の方が優れているか、何ができるかをアピールしなくてはならない。人より先手を打ったりするのが苦手な人にとっては就活は難しくなる。このことを親も本人も自分ができていないせいだと思う。「あなたじゃなくても他にたくさん代わりはいる」というこの関わり方では必要とされている気はしない。これがコミュニケーションがしにくい原因だろう。
その後参加していた皆さんの話を聞いて感じたこと。この会でもどちらもよくある話ですが、一度も働いたことがないまま動けなくなっている人と、何年間も働いてから引きこもりの状態になっている人がいます。でもどちらの人も学生時代にコミュニケーションが苦手だったり、みんなが楽しそうにしている中には入れない、入らなかったという話を聞きます。自分もそうだったので想像できるのですがその時は自分が面白い話の一つもできずその場の空気を悪くしてしまうと、自分のコミュニケーション能力がないことが悪いと思っていました。でも本当にそうでしょうか。人より多く何かを持っていることをアピールしたり何かをうまくできることを見せたりするような、「さぁお前は何ができるんだ」という雰囲気の中で話せないのは、例えば真面目で優しいところがあったり、そういうことを言うことで傷つく人がいることを感じられるほど感受性が豊かだったり、とても良いところもたくさん持っているとも言えるのではないでしょうか。面白い話ができないし場をしらけさせてしまうことが怖くなるということは、自分より相手を大事に思って合わせようとしているからです。だからそのままの自分でいいんだと、必死のパッチで毎日を生き抜いているんだから一人一人が自分の話し方でなら話せる話は尽きないはずです。真面目に生きているほどクスっと笑ってしまう面白い話も多いです。自分がそれでいいんだと肯定できている人の話なら、意外と人は聞いてくれます。でもいきなり話しにくい雰囲気の中で試すよりは、そこにいる人から否定されず安心していられるような場で自分の話し方で自分の話ができる体験を重ねることが大事だと思います。だから一人でいても、コミュニケーション能力がないという思いはなくなりません。自信は持てないままだと思います。だから自分が安心できる場を探すことをする。そしてそれがゴールなのではなく、人と出会っていく中で傷ついたり嬉しかったり悩んだり、そこからの方にたくさんの時間をかけていきたい。(くみこ)