【投稿】「普通って何?」
先月の(9月20日)例会の感想です。さっそく通信に掲載いたします。
2014年9月の交流学習会。司会者が「子どもたちに一番理解してもらえないことってどんなことですか?」と問いかけた。すると70歳くらいの紳士が立ち上がり、「私の言葉が通じない」と話し始めた。何の力みも感じない穏やかな言葉である。
「私は子どもの頃大変貧しかった。学校を出て就職し、両親を助けようとして、一生懸命に働いた。おかげで私は社長になり、1500人の社員を抱えるまでになった。そのために朝は5時・6時から出勤し、夜は10時・11時に帰宅するのが『普通』だった。しかし、子どもは毎朝学校へ行くという『普通』のこともできない。息子は何も話さないし、女房も息子に加担しているようだ。どうしたら言葉が通じるようになるのか。」
私と同年代であり、苦労話もよく分かる。よくある話だ。ところが事務局側の若手から、いっせいに質問が飛び出した。「お父さんは、息子さんにどうしてほしいと考えていますか?」「無理なことは言っていない。普通のことを普通にやってほしい、といっているだけです。」「お父さんの言っていることは『普通』ではないですよ。」「いえ、普通です。普通にやれといっているだけです。」事務局側の若手は「普通ではない」と一斉に反論する。多勢に無勢である。お父さんは沈黙してしまった。勿論、私も若者側の言い分に賛成である。しかし、会場内の他の人の意見はどうなんだろう。若者の意見にうなずいている人が多い。しかし、中年の男女は若者の意見にうなずきながらも、お父さんの言葉にも共感しているようだ。発言者数で圧倒したからといって、このまま、この議論を打ち切ってはならないだろう。多くの人は、議論の行方や勝ち負けではなく、どれだけ共感できるかを聞いているのだろう。
かつて、私が司会進行をしたときも、こんな進め方をしたことがあった。相手を沈黙させれば、論戦に勝利するのではない。それだけなら、15年間も引きこもり支援の対話集会を続けてきた意味がない。どうしても、われわれの主張と若者の気持ちを理解してもらいたい。エコノミックアニマルといわれた日本の経済発展期、過労死寸前のサービス残業や社畜といわれたような働き振りを息子たちに「普通」だと自慢げに話されても、息子らはただ恐怖するだけではないのか。お父さんは「大変貧しかった」から一生懸命働くモチベーションがあったかもしれないが、おかげで豊かになった息子たちには、そんなに働かなければならない意味が分からない。学校でも社会でも、一生懸命働いた成功談や美談がもてはやされる。先生もそれを「普通」と押し付けようとする。「普通だ」「普通でない」の応酬だけでは「水掛け論」であり、誰の共感も得られない。かつてそれが「普通であった時代があり、今は普通ではない」ということを互いに認め合ってこそ議論が嚙み合うというものだろう。われわれは宿命的に異なる世代の人たちを集めて議論を進めようとしている。考え方の異なる世代の軋轢があるからこそ、ストレスが生じて、引きこもりやその他の障害を引き起こす。その軋轢やストレスを解きほぐす議論の進め方を身に着けてこそ、交流や助け合いの成果が得られるだろう。若者としての主張を声高に訴えるだけなら、他の方法があるだろう。
15年間もどうしてこんなに迂遠な方法を取り続けてきたのだろうか。
「普通」を続けてきた末に、いまや若者たちが働く場も得られず、年金縮小や福祉の切捨て、企業減税する代わりに消費税の増額、これが「普通」だとはまさか言わないでしょう。
西嶋彰