「へそでちゃ」について 髙橋淳敏
「へそでちゃ」について
今年の3月ごろに摂津富田駅から徒歩10分の店舗物件を借りて、「へそでちゃ」と名付けた。どんな場所になっているか、元々どういう目的で借りたのかも含めて、半年以上が経過したので報告する。まだ知らない人も多いので、この場所を借りることになった経緯から説明したいが、いろんな人や団体と協力して運営している場所なので、「ひきこもり」と言われる社会問題だけではなくて、それぞれが関わっている経緯も違えば、どういう場であるかという思いも違う。そういった少しずつは違った思いによって、日々この場が更新されて、へそでちゃができているので、説明するのは難しい。そのところをニュースタート事務局関西や高橋個人から話すので、どうしても一面的で一過程でしかないような言いっぷりにはなるが、いろんな人やグループが合流してできている前提について、ここでは紙面を割けないので、想像してもらえる余白は持たせたいが。
ニュースタート事務局関西として、ここに至る新しい場所を模索し始めたのは、コロナ騒動が始まる直前2019年秋に共同生活寮を閉じた頃であった。2001年から20年弱運営してきた共同生活寮を閉じるのは、ニュースタート事務局関西全体の活動をやめるほどの大きな出来事であった。実際に法人のミッションである「ひきこもり支援活動」と言われるものを見直すことになった。特には「支援」と言われていることについては、また別の機会とするが。共同生活寮をやめる理由はいろいろあったが一つ大きなこととして、共同生活寮を運営することが、うまくいかなくなったことがあった。引きこもり第一世代と言われている就職氷河期を経験した世代は、そもそも就ける仕事がなかった。既存の社会は働き盛りの若い人を必要としなかったし、お呼びではなかった。なので私たちは日本スローワーク協会というNPO法人を、2005年に別で発足させて、カフェコモンズ(現在は就労継続支援事業所)を作るなどして自分たちで仕事も作った。就労支援は、自分たちで仕事を作ることだと、そうも考えてきた。「ひきこもり支援」というと、世間一般的には企業や学校への就労や就学支援なんかを想像されがちで、そういうことしかやっていない「ひきこもり支援」団体が、ほとんどである。その最たるは「発達障害者」などに対する就労継続支援などでもあって、個人が仕事に就ければそれで良くて、というかまだましで、相談や紹介くらいしかやらないところも多い。フリーターや非正規職でしか働き口がなかった時代が長く続き、フリーターや非正規職をした後で引きこもることも多く、そのような仕事との相性も悪ければ、いっそのこと自分たちで仕事を作るしかなかった。何よりも若者を必要としない社会構造が引きこもりという問題を起こし、入り口の狭い社会に1人の人を就労させるということは、他の人とまた競争させることでしかなかった。そうして作ったのがカフェコモンズもそうであるが、「コモンズハート」という町の何でも屋さん事業(現在は一般社団法人で不用品処理や引っ越し、空き家管理、掃除など)もあって、今も月一くらいでへそでちゃを使って運営会議をしている。
相反するように、共同生活寮が面白いのは、就職状況が良いことと(いわゆる売り手市場に転じた)に反比例した。就職状況が良くなるのは、選択肢も増えて基本的には良いことのはずだが、この「基本的」というのが引きこもり問題にとっては良くないようである。結局は「ひきこもり」のゴールが、身も蓋もなくどこかの企業に就職することになるので、あるいは家族や支援者や本人たちが、例えば「自立」ということについて就職を強く意識させられてしまうので、仕事を自分たちで作るなどは、迂遠なこととしてやりにくくなる。ハローワークに行くこととか、サポートセンターに通うこととか、発達障害の認定を受けることとか、どこかに所属従属することや、そのためのスキルを学ぶ(コミュニケーション能力)とかが目的化する。面白くなくなったのは支援者だと思っていた私であって、やめろと言われても(言われるほど)やる人は就労するわけだが、そういう時代と呼応するようにして、共同生活寮は施設化していった。私たちが目指していた寮は自治寮やシェアハウスのような形だったが、先の就職がはっきりと目的化していく中で、本人や周りからは共同生活寮が社会復帰施設であることが望まれ、支援者は管理とか監視の真似事が仕事のようになってきた。そもそも期間が限定されている寮生活での自治は難しくはあったが、「自分たちのことを自分たちで決める」というのは、前からもあまりできなかった課題として残った。一方で、就職状況が良くなったのであれば「ひきこもり」と呼ばれる人たちが日本社会から減ったのかといえば、そうではなかった。不登校もどんどん今も増えている。ここでもさんざん問題提起させてもらっているように、結局は「ひきこもり」と言われる個人の問題とされているものは、30年前にはじめて発生した時から社会問題であった。個人ではなく社会が問題だったわけで、その社会が30年経って変わらないどころか「ひきこもり」を増やしていった。その社会にいくら引きこもりを放り込んだ(適応させた)としても、引きこもりを生み出す社会を強化しているに過ぎない。もはや言い過ぎとも言えなくなってきているが、社会が「ひきこもり」と言われる人に適応していかなくてはならない。何よりも「ひきこもり」と名指された人たちが作っていく社会にこそ、希望があると考えている。「引きこもり」を社会に適応させなくてはならないプレッシャーが強くなって、守り切れず共同生活寮はやめたが、私たちの問題意識は変わっていない。いぜん私たちの課題は自分たちで仕事を作っていくことであるし、寮でできなかった自治を地域に作る必要があった。
突然出てきたように思う自治について説明して、今回のへそでちゃについてはくくることにしたい。自治会や地方自治など、自らで治めることを自治とは言うが、その実態はご存じのように自治会ならば地方自治体に従属するようにあったり、地方自治体ならば国家に従属するようにあったりして、治めるというよりは上位組織との調整団体のようである。それなので、組織のあり方も持ち家などが優位で権威主義的であり、家父長制であったり、中央集権的であったりして変わらずにいる。今では高齢化して、人々の生活も孤立無援化して、自治会などは存続ができなくなっているところが多くなった。かろうじて清掃活動や祭りなんかが残っているが、徐々に業者などに外注化されてきて、自分たちでやっているとも言えなくなってきている所がい多い。繰り返すことになるが、ひきこもりは社会問題である。学校でもなく会社でもなく、家族でもなく私たちが直接関与して変えることができるのが、地域である。地域のことは、国家でもなく地方自治体でもなく、そこに住む住民が変えていくことができる。そもそもは私たちの住環境を変えていきたいという思いからの地域活動が、自治会や地方自治を作っている。家族や学校や会社はそこに所属するものか権威的な上位団体でしか変えることができないが、地域はそこに住んでいるだけで、あるいは関わっているというだけで変えていくことができる。引きこもっていた人にとって話すハードルが高いのは、同級生とか近隣の人とかとも言われている。そこを逆手に取るようにして、この富田近辺での地域活動を、自分たちのことを訪れてきた人と共に、自分たちで決めていく暮らしを実現させたい。鍋の会は、12月で500回を迎える予定で、このへそでちゃでも毎月のように開催しているが、ここで実際は何をやっているかについて、ほとんど書けなかったので、またの機会としたい。
2024年11月16日 髙橋淳敏