「失われてはいない30年」髙橋淳敏
失われてはいない30年
日曜夜に子どもが頭を強打して脳震盪を起こし、次の日も眩暈などがの症状が残ったので学校を休み、朝から病院でCTを撮られた。何も異常がなかったから良かったが、支払い明細に選定医療費として7700円の記載があった。2,3年前にできた仕組みでこの日まで知らなかったが、200床以上ある大病院で診てもらうには、かかりつけ医からの紹介状が必要で、なければ患者が「負担」しなければならないとのことだった。何の負担なのかもよく分からないが、罰則なのか追加料金として選定医療費なるものが、診察の費用とは別に設けられていた。総合病院のようなところではなく、診療所や小病院でできることは済ませ、膨れ上がり続ける医療費を削減するつもりなのだろう。実際、この日も9割程は高齢の人たちだったが、私たちも4時間待たされるほどに、大病院は盛況であった。すぐに病院に行った方がいいと電話口で指示され、救急車を呼ぶかも迷ったが、救急でも診てもらうにも医者が一人しかおらず待たされるとのことで、子どもは歩けたので案内にあった脳神経外科のある近くの病院に飛び込んだ。その受付で開口一番、選定医療費を支払わなくては診ることはできないと、こちらの状況を何一つ聞くこともなく、一方的な説明を受けた。支払いたくないからと、ここで引き返してかかりつけ医の紹介状を書いてもらいに行ってから、戻ることもできないわけで、支払いにしぶしぶ承諾する他なかった。一般内科ならまだしも脳神経外科で、その持病もない子どもにかかりつけ医などいるわけはなく、緊急性があり近くの専門外の医者に先に診てもらう余裕はない、さらにはえり好みしたのでもない提示された近くの病院へ行ったのに、なぜ選定したとして余計に「負担」しなくてはならないのだろうか。年に数回も利用しない病院の、一体何のために国民健康保険料を支払い、年金を支払っているか。このような制度の歪さは、直接的には少子高齢化が、その原因になっていることは想像に難しくない。従来ある制度では上手くいかなくなって久しく、そのためか少子高齢化もとどまりもしない悪循環。このような罰則に似た仕組みを設けて、負担の押し付けや病いとも向き合う気もない制度。無関係であろうと高額な敷居を設け、診ることもできない医療制度はここに完成していた。アメリカなんかでは、親知らずを抜くだけで時間外に関わった病院スタッフの人件費など含めた一回に何十万円にも及ぶ請求をされたような話しを知人から聞いたことがある。それよりかましか?まだ治療をするだけアメリカの方がましなのか?患者クレーム処理中心の現代医療とも言い難い病者には無用な技術革新は進んでも、症状や患者と向き合い治療する医療は、これらの制度からは除外されるようだ。一見して医者は、金の力によって堅牢な診療室の中で保護されているが、当然このような患者や病いと向き合えない制度に侵されている。医者と出会う前に、患者が選定されている。ここから学べることはとても単純なことで、この高度な医療らしい仕組みにいつしか乗っかれるよう必要以上に金を稼ぐかして保険をかけるか、早々とこのような医療制度と付き合うのは諦めて自分たちで病いや死に備えるか。二者択一は嫌だが、少なくともこの30年は、私たちは市場やこのような制度からつまはじきにされ、自分たちでやれというメッセージとしか取れないような疎外を受け続けてきた。それで、そう引きこもり問題こそは、お前らなんかに任せちゃならんと、自分たちでやるんだと言ってきた。そうして、ずっと負け続けてきたのだ。それでも本当に私たちは何もできなかったか、自分もたまに言ってしまっているし、社会も言っているような「失われた30年」だったか?私たち引きこもり世代は本当のロストジェネレーションなのか?NPOとしては25年、私は50歳も手前で、そんなことでもなかったと最近にして思うようになった。
株価が33年ぶりの高値をつけた。前回に今の値をつけたのは1990年3月のことで、それは日本が経済大国を極めバブルと言われた時代の最期である。さて、では今は景気がいいのか?たしかに物価が多少は上がっている。それで人々は生活が苦しいと言っている。それは何故か、給料が上がっていない。ここ何年も政府は会社員の給料を上げようと躍起になっているが上がらない。個人所得が上がらないから物価は上げられないのに、今度はとうとう物価だけが上がってしまった。後手後手で、さて人々の所得は上がるのか?物価高のため消費が低調で、GDPがマイナス成長、ドイツに抜かれたのはどうでもいいが、景気がいいってどう考えてもおかしい。不景気なのにバブル。国が個人に投資しろとNISAとかなんかで、金を出させ、ついでに自分のことは自分で守れと強迫している。とても危険だ。「投資には多少のリスクはともないますが、ただちに危険なことはありません」とは、いつかどこかで聞いたことのある話しだ。誰がどう見ても嵩張るのは医療費や介護保険料くらいで、少子高齢化で人口減少がこの国の将来不安の根幹、それがムード(景気)である。イノベーションなんて意味の分からない日本で、既存の企業を政府がつぶせないことをハゲタカ投資家たちは良く知っている。守られる株価。人々の生活が苦しくなればなるほど企業の価値は上がる。本末転倒。崩壊するときは一瞬である。何よりも人はその栄華を経験すると、守ろうとする。守ろうとするだけの暮らしに、子どもが入る余地なんてない。とどまらない少子化。こんな終わりの始まりが、1990年初頭であった。それを「失われた10年」と言い、今では30年とも言っている。さて、では今回株価がバブル期に戻ったのでようやく私たちは失われていない時代を、過ごすことができるのかと言えば、そうではなさそうだ。もう一度考え直したい、私たちはこの30年何を失ってきたか。経済成長?だとして、今回に至ってもマイナス成長で消費も減っているのだ。バブルを経て私たちが決定的に失ってしまったものというのは実は経済成長という考え方そのものではなかったか。地方から都市へと人口が流入し、経済発展した最盛期に叫ばれていたのは、関係性の希薄といった課題であった。新しく作った町で、近隣との付き合いもなく、親戚とも離れ離れに暮らす核家族の集合体地区が日本の都市や郊外を埋めた。1995年阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件などで露呈したのも人々の「こころ」であった。世界で一番の経済大国となり、一億総中流の栄華をもって、それでも(だからこそ)満たされない人の「こころ」があった。物質的に豊かになることと、喜びや幸せは全く別だということを私たちはこの時代に大きな犠牲を払って学んだのだった。私たちが失ったのは経済成長ではなく、経済成長をする動機(ムード)そのものではなかったか。ならば、それは取り戻そうとするのではなく、失ったままでよかったのだ。この30年、私たちは失ったものを取り戻すつもりもなく、それでもどうにかして生きていけるかを考え、小さな暮らしを実践してきた。そこに引きこもり問題は今でも核としてある。炭鉱のカナリヤのごとく、この社会で引きこもる心性は、感性も含めた優れた身体性を現わしていた。実体経済が見るも無残な状況の今、私たちのこの失われてはいなかった30年が、問われる思いでいる。
2024年2月17日 髙橋淳敏
コメントしようとしたが難し過ぎた