「流浪の民」髙橋淳敏
流浪の民
コロナもなく、共同生活寮もあったころ、私たちはよく旅をした。旅をするために、日常があったとは言い過ぎかもしれないが、私たちにとっての日常は、それだけではとてもつらいことであった。何よりも日常生活では、協力することがやりにくかった。掃除当番とか、料理担当とか、協力と言えなくはない役割分担はあっても、日常的には、誰かがやってくれるものか、あるいは自分がやらされることでもあった。人と協力する必要のない日常においては、引きこもっていた方が楽だ。人と関わりたくないから引きこもる。でも、人と関わる以外に引きこもりから出る理由はない。私たちには引きこもっている所から出るだけの、守るべき日常生活はないように思えた。目的もなければ私たちはなぜ外に出なくてはならないのか、なぜ働かなくてはならないのか、何のために学ばなくてはならないのか。そんな奴は野垂れ死んでくれてかまわないと、社会は何度も私たちに引きこもることを要請してきた。私たちはその日常でもがいていた。表れては消える食欲や、性欲に悩まされ、生きたいという気持ちも消えてしまうことはなかった。湧き出てきても消えない欲望は、引きこもりたい私たちに問題を引き起こした。その度に、日常から引きはがされ、私たちは日常的に非日常を経験することになった。分かりえない非日常は私たちが協力する機会でもあった。
そう旅である。旅は日常のネガが、まるで写真に映し出されたかのようにしてポジティブに現れる。いつも大勢で旅に出ていたので、最低限の準備は楽しくもあった。Tさんは、自前のクイズを用意して夕食後に披露することが何度かあった。そのクイズの中で今でも覚えているのが、「日本で一番偉い人は誰か」というシンプルな問いであった。Tさんは普段からふざけることが好きな、子どもっぽいところもあったので、「まさか総理大臣なんて答えさせるわけじゃないよね」といらぬ心配をしたこともあって、私も含めて誰も答えられなかった。こんな質問の答えに、なんて突っ込めばいいのか。内心、少し冷や冷やしていた。そこでTさんは得意げに、「あなたたちだ」と言わんばかりに、たしか国民と答えた。国民はどうかとも思ったが、Tさんの言いたいことは良く分かった気がした。同時に自らが今まさに、抑圧されていることに気づいた人も私だけではなかったはずだ。これも旅の中だからできた企画で、日常的にこんなことはできないだろう、できてもこれほどの感動はないだろうと思った。
「民主主義は多数決だ」と、それこそ私が普段から偉いと思っている少数派を自称するTさんではない友人が言った。確かに、今の議会制民主主義は、代議士が議会で議論する仕組みではない。そこで行われていることは単純に多数決であり、やっても数合わせである。でも、Tさんが言ったように私たちが一番偉いのであれば、それを民主的というのであれば、少数者の意見は議論もされずにいったいどこへいってしまうのだろうか。表に出てくることはないのだろうか。
民主主義がただの多数決というのなら、それは多数決主義であって、民主的とは言えないのではないか。なぜって、その仕組みは多数派が偉いということになってしまうではないか。今の議会制民主主義は少数派を多数派のやり方に強制する仕組みである。というのなら、分かる。でも、たぶんその仕組みは変えることができる。でも、一体どうやって。答えはシンプルだ。国会で議論しないのなら、私たちが平場で言いたいことを言って、議論もすればいい。自己顕示欲や、人気取りになっていしまっているSNSなんかではなく。民主主義を体現できる平場というプラットホームはもうすでにどこにでもある。でも、そのプラットホームをなくしていこうとするのは、多数決主義の今の議会制民主主義でもある。抵抗するためには、そう、ちゃんと言いたいことが言える路上や広場に変えて、集まるしかない。
そう旅であった。旅は人の日常に触れる機会でもある。そこでは旅人はよそ者であり、少数派である。だが、その出会いは、今の多数決主義なんて簡単に乗り越えてしまうことがある。普段、感じることができない私たちが偉いという実感も生まれる。そう、抑圧から解放される。こういうとき、私たちは十分に民主的だと思える。そう旅は民主的だ。
2022年12月17日 髙橋淳敏