「引きこもらされている場合じゃない」髙橋淳敏
引きこもらされている場合じゃない
社会問題としての「ひきこもり」を解決していくためには、みなで社会を変えていきながら、それぞれの日常生活を大事としていくしかない。その日々は楽しいもので、人生は喜びに溢れてもいる。
音楽を聴くのが喜びである。最近はレコードで音楽を聴く。といっても、どっかで拾ってきた安価なレコードプレーヤーを20年物のCDコンポに、どこにでもあるケーブルを繋いで聴くだけなので、音が高級なのではない。正直、その同じコンポを通してCDで鳴る音と、レコードからの音との違いは分からない。同じ曲をそのアンプとスピーカーで、CDとレコードで交互に再生してみても、何が良いのかさっぱり分からない。レコードの方が雑音を拾うくらいである。でも、なぜかレコードの方が聴いて、楽しいのである。それは、レコードを再生する手間であったり、面倒にその楽しさの理由があるという人もいるけど、そうではなくやっぱり音のせいではあるのだけど、少なくともレコードの方が音がクリアであるとか、解析してに音が良いようなことではない。もちろん録音状態が悪かったり、円盤の加工が悪かったりして楽しくないレコードもある。例えが適切ではないかもしれないが、蛍光灯の光と太陽の光が同じ明るさ(ワット数)で届いていたとしても、その感じ方は違うように、それほどの違いはないがレコードとCDの音も決定的に違う。アナログレコードから伝わる無限の情報は、CDから流れる無数の情報粒とは違って、聴くという人の行為を変えるのだと思う。楽しいというのはたぶんその能動的行為にある。かつてCDを聴いた時にもあったワクワクが、今もレコードにはある。かつては蛍光灯の明るさに感嘆した文明人が、夜更かしをやめて朝散歩を始めたようなことかもしれない。
料理が喜びである。かつては、レシピ通りに作った方が旨いし、ここで酒をこれくらい入れて、どれくらい煮込んでとか、良いレシピがないかと探していたことがあった。しかし、最近喜びを感じる料理というのはそういうのではなくなった。世の中にあふれているレシピの多くは、肉や野菜の味を無視したものが多い。スーパーに並ぶ肉や野菜は、できるだけ均一に無個性で後で味が入るように薄く作られている。まるで工場製品のように大量に均一な野菜や肉が出回っている。それらの野菜や肉に、調味料などで後で味つけをするから、レシピ通りの同じ味の料理が完成する。大量に出回るレシピにとって、薄い規格野菜が必須となる。それらの料理は旨くはあっても、どっか味わいに欠けるというか美味しくはない。正直、そこまで後で味をつけられた野菜や肉が美味しいものなのかどうかも分からない。記号的に大量に生産された肉や野菜は、輸送システムのベルトコンベアーに乗っかって近くのスーパーに届けられ陳列され、レシピに従ってピッキングされた野菜や肉は似たような調味料で味付けがされる。各家庭のキッチンが、工場労働というか流れ作業の末端になり、料理という労働をさせられている感がぬぐえない。自分が作った料理が工業製品のようにも感じる。このように受動的になってしまっては、料理に楽しみはない。レシピに頼らず、この肉だから、この野菜だから、今日はどう調理してやろうかと考えるところから料理は始まる。野菜や肉の味をできるだけ引き出すか抽出して、味見をしながら調理する。化学調味料は補助するためだけに使用する。それだけで、料理という行為は喜びになる。
住まいが喜びである。私は子どものころずっと団地やマンション暮らしであった。最近は、誰が住んでいるのかよく知らないが、タワーマンションであったり高級ホテルであったりをよく見かけたり、その間取りを広報していたりするが、それらを羨ましいとは思わないようになった。それらの基準は、豪華であったり、ゆとりがあったり、きれいであったり、便利であったり、見晴らしが良かったりなんかだろうが、いったん住んでしまえば蛍光灯の明かりと同じで、なければ不便に感じてしまうが、そのような与えられただけの住まいには楽しみはない。私が今住んでいる家は築100年くらいの古民家ならぬただの古い家を改装したようなところだが、自分たちでキッチンなど作ったから配管がよく詰まったり、構造上風通しが悪く湿気やすい部屋があったりと、他にもなかなかに愛嬌がある。だが、一見面倒にも思えるそのメンテナンスに喜びがある。季節によってやることがあり、家もただ古くなるだけでなく進化している。いつまでも完成しないサグラダファミリアに住んでいるようなもんである。模様替えなんてものでもなく、住まいに手を加える喜びである。
コミュニケーションが喜びである。先月はコミュニケーションが目的であるとここで語った。コミュニケーションは人と仲良くなったり、人のことを理解したり、仕事をしたり、職に就いたり、お金を得たりする手段ではなくて、それ自体が目的である。ニュースタート事務局関西で長年行っている鍋の会や訪問活動は、表向きはひきこもり者の支援のために、その目的でやっている。それは嘘ではないが、本当のところは、コミュニケーションのために、その場や活動はある。ひきこもり者の支援が目的で、手段となったコミュニケーションはひきこもり者の支援にはならない。人と仲良くするために、人のことを理解するために、コミュニケーションがあるのではない。目の前の人が何を思っているのか、何が言いたいのかをそれをどうやったら知れるのか、自分が何を思ってそれをどうすれば相手に伝えられるのかがコミュニケーションである。コミュニケーションが上手くいかないのはどちらか一方の責任ではない。一方の責任と考えてしまうコミュニケーションは喜びでもなく、コミュニケーションを否定している。
以上のような楽しさや喜びは、引きこもっていても経験はできそうではあるが、経験すれば引きこもってばかりもいられない楽しさであり喜びでもある。
2022年9月17日 髙橋淳敏