「胡蝶の現」高橋淳敏
胡蝶の現
夢現(ゆめうつつ)。現実のような夢を見ることがある。現実でもなく奇天烈な状況であっても、起きている時の感覚や感情が夢の中にもある。そのような感覚があまりにも現実的であって、覚醒してしまったり冷や汗を掻くなんてこともある。追いかけられる恐怖、間に合わない焦り、喜びや悲しみ、多幸感までも、細部は思い出せないか、緻密ではないものの、それが故にも直接的で原初的で現実にはできない「経験」を、誰もが夢の中でしている。覚えていないだけで、一度の睡眠で何度も夢を見ているというのが定説だが、それならば私たちは、起きている現実を補うものなのか、もっと多様で破天荒な出来事を夢を通して経験していると考えてもいい。夢を無意識のままやり過ごすのではなく、「経験」とするためには、現実や起きている時の意識に立ち上がらせることをしなくてはならないだろう。私はいつからか寝ている間に見た夢を、その体験を、起きてから何度か思い出しては反芻する癖がついた。思い出したくもない夢もあるが、そのような夢もたびたび追体験することによって、夢の内容が次第に変わっていったり、何度も見た夢をもう見なくなったりすることもあった。現実の経験とは違うが、夢の中に「経験」といった体感があって、予知夢のように現実世界に「役立つ」ことはなくても、夢を体験することによって自分の生に豊かな広がりをもつことはある。あるいは現こそ胡蝶の夢かもしれないが。
「マトリックス」というハリウッド映画があって、もう23年も前1999年に学生時代であった私は友達に誘われて映画館に観に行ったことがある。この映画の設定は、現実世界は22,3世紀くらいの未来がベースになっているのだが、そこではいわゆる人工知能などのコンピューターが人類との戦いを制し、その後の世界を支配している。かろうじて生き残った少数の人類が地下に潜って、その世界に対するレジスタント活動をするディストピアとなっているのだが、その人工知能などコンピューターの動力源が人間の生命エネルギーというのが、この映画の肝である。この現実世界では、レジスタンス以外のたくさんの人間は実は生かされてはいて、その生きている人間のエネルギーを吸い取ってをコンピューターが動いているという設定であった。私たちが現実だと思っている1999年のこの世界が実は夢の中で、現実という夢をほとんどすべての人間が人工知能によって見させられていて、コンピューターによって管理されている現実の世界であるこの仮想現実が映画の舞台となっている。なので、舞台は1999年の世界なのだが、この世界が仮想現実であることに覚醒した主人公は、いわゆるチートキャラ(救世主)となって、弾丸をよけたり空を飛べたりする派手なアクションが、そこはご愛嬌だが売りとなっている。私たちが生きているこの現実こそが実は夢であると、それも貴方の夢ではなくて貴方の人生をエネルギーに変換して駆動している人工知能が見させている一つの仮想現実に過ぎないのだと、終始映画では皮肉が効いているわけなので、観る人によっては気分を悪くすることもあると思うが、全編通して、覚醒しなさいというメッセージがあって、アクションシーンも相まってずっと煽られている感じを受ける。
「ひきこもり」が増えたという引きこもり問題は、少なくとも「ひきこもり」のせいではない。社会的な引きこもり問題は、「ひきこもり」の問題でもなければ、「ひきこもり」が問題なのでもない。引きこもり続けることは生きながらえる一つの術であり、それはマトリックスにおけるディストピアとされる未来世界のように、生きながらえるための現代の正攻法といえる。働かざる者食うべからずなんて世界が、一つの仮想現実だったように。見方によれば、現実世界から隔離して夢の世界にいることを目的とするディズニーランドにいるようなもので、ディズニーランドに行きたい人にとってはずるいし怠惰だなんてことにもなるが、そうでない人にとっては何も羨ましいことはないし、よくそんなところにだけずっと居続けることができるなと思うだろう。大方は引きこもる当初の意図とは違って、抜け出せなくなり居続けさせられ、引きこもらされていると考える方がいいだろう。親が死んだら子が生きていけなくなると、親が死んでも子には生きながらえて欲しいと心配する親の声は多いが、大方は杞憂に終わる。子は生きながらえるために引きこもり続けているのであり、家の外へと出ていくことは荒涼としていた現実世界で自分自身の生や死と向き合うことでもあって、親もできなかったような大変なことである。生きることよりも生きながらえてほしいと親が望むことは、「ひきこもり」が見る受動的な夢と同じである。親は子が死に向かって生きていくことを認めたくはない。親世代が子離れできない。それが日本社会に長く続いている、ひきこもり問題である。8050問題なんて騒いでいることがそうあるように、いつまでも親が子の心配をしながら長生きしすぎることは、その親が子に殺されるようなことになってしまいかねない。子が何に夢中になれるかであり、親は何に夢中になって生きてきたかである。例え人生が胡蝶の夢でも、寝ながら見る受動的な夢の経験とは違い、現実には能動的に夢中になることがある。生きることは夢中になるほど死には向かっていくのだから、その刹那こそ、しっかり生きろと言って、家の外に開かれている世界へと子の背中を押すしかないだろう。それができないのならば、マトリックスの仮想現実から覚醒し、自らが見る子育て以外の能動的な夢の中で生きるしかない。
2022年1月15日 高橋淳敏