「食うには働く暇はなし」高橋淳敏
食うには働く暇はなし
料理する時間が長く、ふと思ったようなことである。私はこの10年にたくさんの料理をしてきた。直接は子どもと一緒に生活することによる役割からだが、基本的に料理することは好きであった。ここで言う料理とは、在り合わせのものに幾分かの手間をかけて、何か食べられるものを作ったり、近くのお店に入って食べたいメニューを選ぶのではなく、食材を調達して食べたいものを家で調理することである。夫婦共々が食いしん坊で、美味しいものに目がない上に、二人ともが料理するので、誰に指導されるのでもない素人料理だが、その腕は相乗効果で年々上がっているかに思う。完全分業体制(ワンオペ専業主婦とか)ではなく、料理内分業体制で日常的に同じくらい料理をする人が家に2人いて、お互いに料理をし合って食べたり、たまには協力するわけだから、相乗効果でしかない。そのような料理体制が日常になると、料理だけに限らないが、専業主婦というやり方が、いかに脆弱かつ、じり貧になるかに気づかされる。さらには、子どもたちという絶対的捕食者がいるのも相まれば、自分の食欲は年々衰えてはいっても、食に対する関心は年々高まってくる。加えて、家の中だけではなく、鍋の会や寮の夕食、毎週の集まりや友人宅など、いろんな場所で週に2,3度くらい家の外でも料理する機会があり、大量に作ったり、人の指示で作る料理であったり、他人の評価に晒される場面もある。毎度の行為をいちいちは反省できていないが、身体的な経験や人の反応などとして、知識というより思い出としての料理が積み重なってくる。食べることでもなく、仕事としてでもなく、料理する行為、それに夢中になることが幸せに思える。もうあまり参考にしていないが、インターネットが隆盛して、手元にある食材などを検索に打ち込むと、各ジャンルの完成料理とそのレシピが出てくるなど、レシピ集が仮想空間に氾濫し、すぐにアクセスできたのは便利であった。料理本を買ったり、知っている人に習ったり、何度も研究したりする手間や加減を知ることが、良くも悪くも省けた。海外で料理をしている動画を、どんな調味料を使っているのか想像しながら眺めるのも面白い。店の開店までの仕込みを、長尺に編集している動画なんかは、最近は面白く見ている。
近年はめっきり外食しなくなった。初めて行くような郊外都市が、チェーン店ばかりで美味しくもなく、ただ米を食って腹を満たすためだけの化学調味料で味付けされた牛丼なんかを、身銭を切ってカウンターに座らされて食べるなんて、客もどっかから集まってきては穀物を食わされているわけで、まるでここは牛丼屋ではなく牛舎のようじゃないかと、どちらが餌でどちらが畜生なのかも分からないものだし、その上店員もアルバイトだけだなんて、大したディストピアだと、そういった類の店に入る気が萎えていた。個人経営の定食屋なども減って、まだ少しましに思えたのが地域のラーメン屋だったが、この前は千円近く払うのも渋ってみながらもお腹が空いて、久しぶりに入ってみたのが大阪市内で流行って、高槻にできた行列のできるラーメン屋であった。市内にあった時は、店主一人か数人で作っていたのかも知らないが、フランチャイズか暖簾分けなのか高槻の店は、若い5人くらいで店をオペレーションしていた。厨房も全部見える作りだったが、そこで料理するのではなく仕込みはすべて終わっていて(たぶんセントラルキッチンかなにかから運ばれてくるのだろう)、注文に応じてその数人が手分けして、器に具を乗せたり飾ったり、スープを注いだり運んだりの作業をしている。最近のラーメン屋にはよくある風景なのだろうが、もっと気になったのは味で、不味いとは言えないが美味しくはなく、化調を使っているのか分からないが強いうま味はあって、でもやはりこれは不味いと言っちゃった方が良いなと思わせる味なのだ。なんだかよく分からない不味い表現ではあるが、まあそういうことだった。千円近く出してしまったことを少し後悔して、そんなことだったらと帰り道、産直系の近くの野菜屋さんに駆け込んで、美味しそうな野菜をまた散財して買い込んだ。
考えてみる間もなく、家庭料理は最高である。在り合わせの食材を工夫して、手間もかけ料理ができる。調理法も加えると無限通りのことができる。冷蔵庫があれば前日にゆでた肉や野菜の汁を残しておいたり、野菜を漬けたものを調味料として使うなどすれば、美味しいだけでなく二度は作ることができない料理を、日々継続していろんな風にして作れる。発酵させることを覚えれば、時とともに変化する味を楽しんだり、保存もできてしまえば、あらゆる料理に活用できる。私はそこまでやってはいないが、もっと工夫すれば、醤油や砂糖やお酒といった調味料の概念さえなくても、塩くらいあれば毎日飽きのない美味しい料理を作り続けることができるかもしれない。食材もあらゆるところから取り寄せられるようにはなっている。商品開発などと言われるような店にあるメニューは、そういった家庭料理を作りやすく再現可能にした一例に過ぎないわけだし、お店で出てくる料理が家庭料理よりも美味しいところは少ないだろう。昨今の家庭料理も不味くなっているだろうが、最近は美味しい店はつぶれて、チェーン店など美味しくもない店が残っているではないか。料理はトラディショナルとラディカルが融合する舞台でもある。昔の人の知恵はなかなかのものであっても、それを今に応用できる柔軟さがなければ、料理という行為は日常とはかけ離れてしまう。それは一長一短にはできないともいえる。でも、まあそんなことを知らなくとも、とりあえずはできてしまう適当さが、料理のいいところでもある。
どんなに膨張した権力も、それに抗う術は私たちの日常の中にしかない。だから、その日常を奪い取られた者は、自暴自棄になり権力に対してテロリストになることも辞さない。加えていえば、権力に従うだけの日常には知恵もない。権力に抗う私たちの日常が生活であり、そこに人知が現れる。設計されたものを一から生産するのではなく、在り合わせのもので作る思想。ブリコラージュ。そんなことを考えながら、日々の料理をしていたのだ。料理という日常を手放すわけにはいかない。私たちの日常から料理を奪い去ろうとしているのは、直接的にはお金である。お金によって私たちは徐々に食いっぱぐれるのだ。引きこもっている場合ではない、料理は主婦のものでもなければ、金を出して誰かにやらせるだけではいけない。家庭料理を母親から奪い返すのだ。
2021年12月17日 高橋淳敏