NPO法人 ニュースタート事務局関西

「間違いを引き継ぐ (short ver.)」高橋淳敏

By , 2021年9月18日 10:00 AM

間違いを引き継ぐ (short ver.)
 新型コロナウィルスの蔓延は、閉じられた暮らしに拍車をかけた。精神病院で入院中に感染した人が、指定感染病院に受け入れられず転院できなかったがために、適切な治療を受けられず多くの人が亡くなっている。それは医療崩壊とはいわれない。野宿者は、福祉政策によって包摂されたらしい為政者たちのPRはあっても、たくさんいるだろう若年層の貧しい暮らしは、あまり見えてはこない。新型コロナ感染拡大前は家庭での子どもの虐待の報道も多かったが、ひとり親の子育ては一体どうなっているのだろうか。病院や人の家にもお見舞いにもいけない。介護や、人の死は尊重されているだろうか。ドメスティックな問題は閉じられ、内で何が起きていようとも外からは分からなくなった。メディアや他者は内には入れず報道すらできない。一方でSNSで自分が自分のメディアとなって、内側から扉を開き続けては、無理解からか炎上する事態は続いている。外から訪れる者もいなければ、ずっと内側から扉を開け続けなければなるまい。社会問題として政治的課題となるべきなんらかの差別があっても、ドメスティックな問題として個人に押しつけられては外からは見えなくさせられている。これらは今に始まったことではない。金持ちも貧乏人もない。なぜか株価は上がっても私たちの暮らしは、貧しいことになってはいないか。景気とはいったい誰の気分のこといったのだろうか。そして、歴史が教えてくれることは正しさではなく、いつの時代でも人は間違いの中に生きてきたことである。

 いまだに正せない根本的な間違いがある。引きこもり問題はそれが問題となった当初から「ひきこもり」に問題があるかのように言われてきているが、この引きこもり問題は「ひきこもり」と言われてしまった若者が100万人か200万人もたくさん出現した社会問題としてもともとはあった。引きこもるような人はその前からもいたわけだが、引きこもるような人が社会にたくさん現れたのがこの問題の本質であった。それがなぜか一人一人の「ひきこもり」が学校に行ったり就職をすれば引きこもり問題が解決するかのような間違った考え方が支配的になり、今日まで引きこもり問題は解決するどころか拡大してきた。発達障害などとして個人を福祉政策の内に処遇したり、当時から引きこもっていた人たちがそのまま高齢化しては、次には8050問題と言われるなど、引きこもり問題はその解き方を間違えては、ただ時間ばかりが経ったか悪化したようにもみえる。引きこもり問題を「ひきこもり」の問題としているところに間違いはある。引きこもり問題は社会の問題であるという認識が最初からあったにも関わらず、なぜそのような間違えが正されずにきたかというと、この社会においての学校や会社は私たちが意識できないほどに常に相対的に正しい存在としてあって、たくさんの「ひきこもり」を生んだと考えられる学校や会社という組織にある人間不信、この引きこもり問題を中心に据えて内実を考え抜き、間違いを正していくという、ごく単純な思いつきを学校や会社の外から実行できないできたのだった。

 ごく最近の北海道の旭川市でいじめによって女子中学生が亡くなったと報道された事件で、親がその学校に娘のいじめの事実を訴えた時に教頭が発言したことが、親の手記によって明らかになっている。その一部だが「10人の加害者の未来と、1人の被害者の未来、どっちが大切ですか。10人ですよ。1人のために10人の未来をつぶしていいんですか。どっちが将来の日本のためになりますか。もう一度、冷静に考えてみてください」と。この教頭が言ったとされることは異様ではあるが、だが私たちはこの間違いを生きていると言われれば、否定はできない。10人の間違いと1人の命や尊厳、これまで学校が守ってきたのは10人の間違いであり、予定調和な日本の未来である。誰かの死に至ることは氷山の一角で、このようなことは学校や会社の内で頻繁に起きている。1人が不登校になり1人が仕事ができなくなることで、学校や会社はその間違いを正そうとすることはない。いじめをやめることだけが必要なことではなく、なぜこのような間違いがどこの学校や会社、家族の内でも頻発するのか、そこにある間違いやその原因を近くの親しい人たちで共に考えることが大事である。

 引きこもるという行為や、不登校といった一見受け身で消極的と思われる行為は、社会の問題が個人に押しつけられている時に表れているようにも思える。社会が間違えているにも関わらず、その問題が一個人の責任にさせられている場合、理解者や仲間もいなければ能動的に抵抗すらできないことは容易に想像ができるだろう。誰かは反論するようにして、理不尽な責任を負わされているのは「ひきこもり」や「不登校」になる人だけではないから、一人一人が努力して頑張って乗り越えなくてはならないと考えるかもしれない。なぜならば学校や会社、この社会が間違えてはいないはずだと。そのような人に「ひきこもり」や「不登校」などと呼ばれてしまえば、よりいっそ何もできなくなる。この構図は差別問題にも通じる。差別を受けた人は、それが社会一般的、大勢を占める考え方であるほど、抵抗はできなくなる。障害についてもそうだ。そもそもが「障害」は社会から持たされるものである。例えば、車いすの人ばかりの社会があったとして、そのような社会では歩く人が障害者となる。階段や段差のある建物を、古代文化遺跡巡りツアーとして訪れる二足歩行の障害者の気持ちはどんなんだろうか。「障害」は誰かが持てるものではなく、社会から設けられるものである。だからこそ「障害」は個人が努力して克服しなくてはならない問題ではなく、社会が取り払うべく努力しなければならない社会問題なのである。
2021年9月17日 高橋 淳敏

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