NPO法人 ニュースタート事務局関西

「お元気ですか?」高橋淳敏

By , 2020年9月20日 1:52 PM

 久しぶりに会った相手に「お元気ですか?」とか、別れ際に「元気でね。」とかは挨拶の定番だが、それは健康ですかとか健康でねと言うのとは少し違う。元気という言葉には、ちゃんと食べたり寝たりしていますかなどの診療言葉でもなく、例えばそのときの気分や幸せですかとか幸せになりなさいよというような意味も含まれているのだろう。「元気」とはなんなのだろうか。職場とか、学校とか、日本社会的で取り繕っているような場面では、その人が元気であるかはあまり気づかないことも多いが、生活を共にしている家族や、あまり取り繕わなくてもいい友達関係のような場面では、その人が元気であるか、前に会った時と違うかは、よく分かることがある。会う直前に財布をなくしてしまうような不運な出来事があって元気がないのか、会っていない長い期間ずっと不安に思うようなことがあり本人も気づかないような元気のなさなのか、その辺を判断するのは難しい。だが、なんか元気がないなとか、妙に元気だなとかは出会う環境にもよって、感じることはできたりはするものだ。その感覚によっては、その時に話しかける内容が大いに変わったりもする。元気かどうかは感覚としか言いようのないことであり、自分の方が元気でなければ相手の変化を勘違いしたり気付くのに時間がかかるようなこともある。昨今のリモート状況(ソーシャルディスタンス)においては、自ら話したり言語化できなければ、その人が元気かどうかは分かりにくいことは多くなるだろう。なのでいろいろと心配にもなる。そもそも元気でもなければ人に助けてと言えないようなこともあるし、自分が元気かどうかなんて自分では分からないようなこともある。

 

 そう、その元気であるとはなんなのだ。先に健康とも違うと書いたが、ご飯も食べられていて、よく寝てもいて、経済的時間的余裕もあって病気でもないけど元気がない人もあれば、貧しくてあまり食べるものなく、体を酷使するような労働もしていて、経済的時間的余裕もあまりないく病気しがちだが、元気なこともある。それは例えば前者は最近の経済で後者は戦後直後の経済に例えられる。アントニオ猪木の元気があればなんでもできる!とは思わないが、むしろベクトルが逆で、「できることがやれている」人は元気であるというのは感覚的にわかる。病床にあったとしても元気な日もあればそうでない日があるように、誰かが病室に尋ねてくれるだけでも元気になれることもある。もちろん誰か嫌な人が尋ねてくることで元気がなくなることもあるが、その「できること」というのは自分だけでできることとは違う。結果、相手があってできたことを考えるのがいい。元気とはそもそも今の生活の中で何ができているのかが大事なのであって、元気がない人というのはどんなにいろんなことをやっていたとしても、できることがやれていない状況にあるのではないだろうか。元気がないのは、やりたくもないことをやらされているとしか思えないような状況が続いていると考えると想像しやすいか。

 

 引きこもっている人が何もやっていないというのは、引きこもり問題が登場してからずっと続いている嘘である。その嘘は、引きこもっている人が何をやっているかやらされているかを黙殺したいからゲームやらネットやらの類のものでずっと誤魔化されているが、一日中部屋にいたとしても、気分の浮き沈みのようなものはあり、不安や恐怖と向き合うようなことは繰り返されている。仕事などをしている人はONやOFFがあっても、引きこもっている人はずっとONの状態なのだと言った人もあった。何もやっていない人と誤解されがちだが、ずっとONかは分からないがその生活には外の世界との緊張関係があり、少なくとも何もやっていないOFFの状態ではない。なぜそのように誤解されるかは、本人たちにも依っている。彼・彼女らは何もやれていないと思わされている。不安や恐怖と向き合うことは、世間的には何もやれていないことであり、それでは何もやったことにはならないのだと思わされている。それではだめだと思わされていることがまず元気になれない一つの要因である。不安や恐怖と向き合っていても元気であることは、やらされているのでもなければできることである。

 

 それでも引きこもっていて元気でないというのならば、例えばそれは不安や恐怖と向き合わさせられているだけなのかもしれない。自分が向き合いたい相手でもなく、自分の人生設計でもなく、自分が向き合いたくもない相手や人の人生設計に向きあわさせられているのではないだろうか。「やっている」のと「できる」のとは違う。それに「できる」というのは自分一人でできるのとは違う。機械化やITなどの現代社会において肥大化した独りよがりな能力ではなく、相手があってこれからもやり続けることが「できる」ような、ちょっとした自信である。その相手が居なくなればたちまちにして人は元気を失ってしまうことがある。相手とは、家族かもしれないし友達かもしれないし恋人かもしれないし好敵手と言われる人かもしれない。元気があればいいのだが、元気でいてほしいのだ。

2020年9月19日    高橋淳敏

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