NPO法人 ニュースタート事務局関西

「沖縄基地移設問題にみる当事者意識(改訂)」髙橋淳敏

By , 2020年4月17日 9:27 AM

 「ひきこもり」と名指され、その人は父親に殺された。2019年6月農林水産省の元事務次官が、44歳の長男をめった刺しにして殺害した事件である。そして、引きこもり問題は「ひきこもり」と名指された個人の異常として、あるいは特異な家庭の事情として社会から葬り去される。それは繰り返されていることだ。1996年11月にも不登校を経験した14歳の長男を、その父親が金属バットで殴り殺した事件があった。殺人罪に問われたこの2人の父親は若かりし頃、同時期に東京大学へ通っていた。2019年4月にはじめて40歳以上の「ひきこもり」勢力が調査報告され、続いて前出の事件が引き起され、「ひきこもり」と名指される人は65歳にまで拡大された。だが、引きこもり問題は20年も前から、その本質は変わっていない。そして、引きこもり問題に限らない。殺されたのは殺された側に問題があるのだと、暴力はする側とされる側の問題であるのだと、度々表に出てきては大勢が見聞き消費し、仕方がないと社会的な判決に消極的ながら賛同し続ける。日本では殺人事件の多くが家庭内で起き、自殺者も多いことは知られているが、暴力の多くも家庭内で起き、出口もなく自分や家族を抑圧し続けている人たちがたくさんあるのだ。閉ざされ隠された中で、加害被害が入り交じり、家の外では何かと平静を保とうとして、さらに家の中での関係は閉され、個人主義ライクに孤立した生活は、できるだけ波風立てないように努められ、じりじりと破綻へと向かっていく。

 自分の家庭ではそんなことは起きていないと思っているような人に何を言っても無駄なのかもしれないが、殺されるには殺される側に問題があると結論したり、暴力を受けた側や弱っている側に問題がある所から考え始めたりする支援者的発想は、どうあったって間違えである。立場や力が強いとされる側が暴力をふるったとして、暴力を振るわれた側に問題があることから考え始めても、そこに一縷の望みもない。大した被害ではない、時間が解決する、平和にある程度の犠牲は仕方がない、引きこもる行為を続けることに問題があると考えるのは、害はあっても益はない。抑圧された家庭生活を強いられ、外に相談しても自らが問題とされ指摘されては、何度この社会に問題が現れても、その間違えが認識されることはない。間違った生活に呆れ、飽きさせられ、あきらめる。生きながらえるために引きこもる生活。権力や慣習、媒介する通貨、暴力などによって閉ざされた生活を疑ってみる。不登校、いじめられる側に問題がある、家庭内暴力、幼児虐待、国家や法律、警察による暴力、隔離政策、相対的貧困・・・間違えを正すのではなく、間違えていることを率直に話し合える対等な関係や地平を拓いていく。沖縄の基地移設問題は、今最も分かりやすい問題であり、私が命題としている引きこもり問題や他の社会問題を考えるうえでも重要である。

 戦後、本土(ここでは沖縄地域を含まない日本国領土とする)にあったアメリカ軍基地の反対運動によって、その結果として多くのアメリカ軍基地が1950年以降に沖縄に移設された。現在では、日本にあるアメリカ軍基地の7割以上が、国土の0.6%の面積しかない沖縄地域に押し付けられている。1995年9月にあった沖縄米兵少女暴行事件など基地をめぐる度重なる事件事故があり、日本の法律では守られない日米地位協定により、現在でも沖縄は地方自治がままならない状況下にある。騒音や環境被害なども加え、日常的にさまざまな事が本土復帰以来も続いてきた中でも、沖縄県辺野古が唯一の候補地だといわれ、アメリカ海兵隊の普天間基地の県内移設が進行中である。アメリカ軍基地に占有されていない本土の人たちも容易に想像できるだろうが、法外の武力によって運営されている基地が地域にあることは、自分たちの地域のことを自分たちで決めることができないということである。基地外で事件事故があっても、独自に調査することもできなければ、基地と基地外の境界線もなく、そこが自分たちの地域とは言えない。

 とはいえ、情けないことに本土を巡る状況を見ても、地方自治が貧しく国や行政下の業者に管理などを丸投げしては、自治のことなど考えようとはしないグローバル金融経済に依存した生活を強いられているならば、占領されている沖縄の状況は想像しづらい。沖縄の中でも意見が割れるほどに単純に対立はしない。都市部などはごく小さな地域のことでも自分たちで決めた経験すらない人がほとんどだ。しかし、戦後に自分たちの地域にあったアメリカ軍基地を追い出した結果として、沖縄戦で本土の捨て石にされた被害にあってもなお、基地が再び沖縄にだけ集中するのは全くおかしな事ではないか。基地について考えないでいい本土での生活は、長年の沖縄の犠牲や沖縄に対する差別によって成り立っている。近年の沖縄は、日米安保に8割も賛同しながら基地を押し付けているのには無関心な本土に呆れ、自治を回復しようと普天間基地の県外移設を、知事選や県民投票など可能な限りの民主的な手続きでもって、基地問題を本土に返そうと尽くしてきている。だが、本土での基地や自治についての考えは、いつまでも他人事であり煮詰まらない。少数派である沖縄だけでは、国を動かすことはできない。沖縄が問題なのではない。本土でアメリカ海兵隊基地移設が問題にならないことが問題なのだ。普天間基地の移設問題の当事者は誰なのか。アメリカ軍に守ってもらうと消極的に賛同しながら、基地を沖縄に押しつけ続けるのか。政府が勝手にやっていることでもなければ、沖縄への補助金で解決する話しでもない。沖縄はこの問題を、あなたたちこそが当事者だと必死に本土へと送っている。

 さてここにきて私たちは間違いを認めなくてはいけない。今までアメリカの基地自体が自分たちの地域にはいらないと言いながら、結局は沖縄にその基地を押しつけてきた過去がある。どんなに沖縄を良くいったとしても、何も言わなかったにしても、この事実は積極的に沖縄に被害を与え、今でも差別をし続けている事実となる。ほとんどの人は、物事には多少の犠牲が必要だというような近代的大人じみた考えから抜け出せずにいるのだろうが、これほど明白な犠牲や差別が少なくとも琉球王朝時代から続いている固定された本土との関係が、同じ国民という名の下で現代においてもなお解決されずにあるのは、近代国家というものの欺瞞と私たちの生の貧しさにあると考えるしかない。そのような過去も省みず近隣国を敵とみなし、今度起こるような戦争がどのようなものであるかも考えず、隣国を威嚇する目的だけに、本土の平穏を守るには仕方がないと、日米安全保障条約に賛同するのは間違えである。引きこもり問題は「ひきこもり」自体が悪いものとして、結局は「ひきこもり」と名指される人やその家族に押し付けてきた過去がある。どんなに「ひきこもり」を良くいったとしても、何も言わなかったにしても、それは20年に及ぶ「ひきこもり」差別に加担してきたことになろう。引きこもり問題は分断されており、沖縄地域のように、社会人と言われるような人たちに、問題を送り届けることはできていないが、引きこもり問題の当事者はあなたである。国任せ企業任せで地方自治ができない今の社会が、「ひきこもり」を名指し「ひきこもり」をひきこもりたらしめている。しかし、お金が命令するところによって従い日々の生活に忙殺され、この生きた世界から引きこもり続けているのは、あなたたちではないか。

 「引きこもり」と名指され始めたのは1990年代である。引きこもり問題と日本の戦後経済発展が終焉を迎えたのには深い関わりがある。高度成長後のバブル経済がはじけ、多くの若者が会社社会から門前払いを受け、既成社会の外へとはじき出された。フリーターや非正規雇用が増加し続け、そのような働き方すらも若者の自己責任とされたが、要するにその頃が経済や働き方の転換点ではあった。だが、グローバル金融経済を理由に企業社会や受験学習教育制度や年金など福祉政策は、戦前からの反省のない植民地主義的な経済に保護され温存されることになる。私たちはこの社会がいつまでも続くものだと考えているが、現在あるのは世界経済を貪り目的なく生きながらえ延命措置を続ける黄昏の経済である。戦争を知らない大人たちは、この経済戦争の加害被害を無頓着に生きながらえ、時代を転換することを保身のために次世代に託さず、社会や人間不信と共に資本を蓄え姨捨山を回避した。多くの若者を引きこもらせた社会こそが引きこもり問題の当事者である。

 のちに「社会的ひきこもり」とも言われるようになって、私は引きこもる行為をし続ける個人を支援する活動を始めたが、引きこもる行為を支援し続ける中で就学や就職をする人はあっても、一向に引きこもり問題は解決せずに広がり深まっていく傾向にあった。最近では、「hikikomori」という音が、海外でも意味を成し、外国人と「hikikomori」について話しができて、どうもかみ合っていないことがあった。私たちは「社会的ひきこもり」を社会的なことから引きこもる行為を続けている人を指して使っているが、フランス住まいのその人は「社会的引きこもり」という言葉を、引きこもる現象の社会性について語っていたのだった。フランス人にとってはfujiyamaやgeishaのような日本を代表する言葉として汎用性のあるhikikomoriという言葉があって、「ひきこもり」が社会的なのである。だが、日本語を使っている私たちにとっては、引きこもる行為を続ける人のことを、今の社会に関わっていかなくてはならない非社会的な存在として考えている。どうにも外から見る方が、問題は明らかになる。引きこもり問題の当事者性、加害性は社会の側にある。「ひきこもり」と名指された人も問題の当事者ではあるが、それはこの問題の被害者としてである。引きこもりに「社会復帰」を求めるのではなく、社会こそが「引きこもり問題」を通じて復帰をしなければならないのだ。「普天間基地移設問題」も、当事者である本土から見れば、なぜか沖縄にある基地の問題だと他人事のように考えてしまうが、アメリカなんかから見ればずっと以前から基地が沖縄に押し付けられているドメスティックな問題として見えていたはずである。アメリカ人の当事者性はこの際置いておくが。私たちは隣人を信頼し、そこに自らを投影し身近な人にもっと怒りと緊張をもって関わっていくべきだろう。素晴らしき世界に生まれ堕ちた自らの生を肯定するためにも、このいかれた社会に抗議の声を、その当事者としての地平を拓かなければならない。

2020年4月17日髙橋淳敏

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