「会社の社会的責任とは何なのか?」髙橋淳敏
コミュニケーションにおいて双方が対等であることが、どれほどそのコミュニケーションを成立させる上での前提になっているかは分からないが、例えば上司に指示された部下が従うことを、コミュニケーションであるとは言い切れないように、コミュニケーションという言葉には双方的で生産性は度外視されたやり取りのことを、考えられているようではある。上司が部下の立場で考え、自分(上司)ならどうするかという一方的なアドバイスではなく、なぜ(部下の)仕事が上手くいかないかということを、経験の浅い立場になって考え、自分(上司)がやっていたときとは違った状況をも鑑み、上手くやるために必要となる条件を(部下に)伝え、そんな中で部下の考えを聞く。それで無理なら上司が他の方法を考えることもあって。あるいは部下に経験もまだなければ、失敗してもいいからやらせてみて、その後部下の失敗を詰るだけでなく、どうすればよかったかを一緒に考える。このような場合、上司部下のように対等とはいえなくとも、仕事を協力するところにコミュニケーションのきっかけはある。でもそのコミュニケーションは、仕事が上手くいったかいかなかったには関係のない、直接生産的ではないところにあるわけで、むしろ上司が指示するだけで部下の仕事が上手くいくのであれば、上司と部下のそこでのコミュニケーションの必要はない。会社においては、金をたくさん稼げという指示が上から出ているとして(実際に会社法人の存立はこの命令を抜きには考えられない)、そこにコミュニケーションのようなことは無用であり、できるだけ安価に会社の指示に従って仕事をしてくれる人や、勝手に金を稼いでくれる人が重宝されていく仕組みになっている。それが今で言えば非正規雇用労働者や派遣社員といった人たちのことだが、もはや彼・彼女らを重宝しなければ、会社の指示に従わない社員や金を稼ぐ能力のない社員を中で雇っておくこともできず、そこにはコミュニケーションの余地もなくなるだろう。カンパニーと言われた会社の、昔は同じ釜の飯を食う仲で強要される付き合いとしてもあり、今は仕事は仕事として忌避されるようになったコミュニケーションは、どのようになっているのだろうか。
この会社とのコミュニケーションで、就職氷河期世代は多大な被害を受けてきたことを、ここでも何度か主張はしているが、もちろん他の世代も被害を受けているし、加害者としてもあったことも考えるが、特にその被害が就職氷河期世代にとってどのようなものであったかを、少し表したい。まずはその名の通り、就職時においての会社とのコミュニケーションで就職氷河期世代は躓くことになる。就職氷河期とは簡単に言えば、人材の買い手である会社が労働力の売り手である学生よりも力を持つということであった。バブル期を境にこの売り手と買い手の関係は180度変わってしまった。それまでの学生は就職するのに数ある会社の中から選択でき、就職活動するたびに会社から接待を受けることもできた。就職活動して貯金ができた人の話しもあった。働いたことのない学生だからこそ、会社に対しての強みがあったのだ。それが普通だとは思わないが、今では信じられない。その力関係が変わり、会社の側が数ある中の学生から社員を選択することができるようになり、50社100社と就職活動するたびに疲弊しお金もなくなっていく学生の姿がそこに現れた。
次に、この転換は就職しても会社とのコミュニケーションが180度変わってしまうことにもなった。会社が人事において力を持つということは、会社がそこで働く人よりも会社都合(利益)が優先されることでもある。カンパニーとしての会社が、その本来の目的である金儲け法人として純化していく過程でもある。そもそも売り手市場の学生に要求されたコミュニケーション能力は誘われたことに対して嫌なら断り、よければのるくらいの、極端に言えば首をどちらかに振るだけでしゃべる必要すらなかったのかもしれないようなものだった。入社に必要な書類は会社側が整えてくれ、すぐにやめてもらっては困るから、手取り足取り仕事を丁寧に教えてくれ、時にはやっかいな誘いであったが飲みにつれていったりしてくれたようだった。買い手市場の学生は面接時に働いたこともない会社で何ができるかをアピールすることになり、仕事に必要とも思えない学歴や資格の取得に命がけの努力を強いられることになる。就職しても仕事におけるコミュニケーションもなく、自分の代えはいくらでもあると脅迫され、仕事のことを上司に聞いても態度が悪いと教えてもらえない。その上当時は非正規アルバイトであったり、仕事をすぐにやめてしまうことは、若者のせいであるかのごとし論調が多勢を占めていて、若者は仕事のできない自らの状況を自分の責任にあると思い悩み、お互いを励ますようなことも競争関係の中、個人に分断されたのであった。労働組合も会社と目的を同じくし終身雇用を守るべく、会社都合の働き方を批判できず労使共犯関係の中で、形骸化していった。今や職場の半分くらいは非正規や派遣の労働者になっているという。会社にとって正しい雇用というのはいったいどのようなことを指すのだろうか?現在は人手不足とも言われているが、会社はグローバル化の影響もあり、働く人よりも会社都合を優先する体質は引き返すこともできず変えられず、会社でのコミュニケーションはもうほとんどないのではないか?ひきこもりや発達障害といわれる人の特異性にコミュニケーション能力がないなんて項目が入っているが、コミュニケーション能力がないのはいったい誰なのか?
経済復興という名の植民地主義的経済発展ともいうべき戦後経済成長社会で、一人ひとりに起きたことは「傍らで起きていることはすでに他人事ではない」という他者との共存においても、個別の生においても必要であるだろう想像性や文化をつくる関わりが、「傍らで起きていることは他人事である」に変化してきたことにあると考えている。そういった変化の中で、私たち一人ひとりが日々作り出しているはずの社会生活が、会社や行政、それもできるだけ大きな組織に頼らざるを得ない構造になっている。なぜ関係や想像性に、このような変化が起きたのか。敗戦後戦争責任をとらない中で、朝鮮戦争やベトナム戦争の特需により、内需も拡大し80年代までの高度経済成長期を境に、物量としては豊かになり個の自立が叫ばれ、多様化が可能になる一方で消費生活での経済的な同質化が進んでいった。一億総中流社会といわれたようなところで、会社による正社員化が人の働き方を席巻し、各種社会保障も整えられ、日本型会社福祉国家ができあがった。それらの権益を守るための経済成長や国内統治により、個への分断とより大きな組織への統合が同時に進められ、他者に対する想像性は無用になるか負担となり、必要がなくなっていく。関係の希薄化などがいわれ、文化や芸術も変容していく。核家族化し、地域性は隠され、労働組合は資本に随伴し、市民運動は形骸化していった。傍らで暴力や災害、戦争でも起きない限り、その想像性は開かれないところまで来ているのかもしれない。いや、その傾向は傍らで暴力や災害、戦争が起きていてもできれば無関係であろうとする態度や制度によって保たれているといった方が正しいだろう。それはしかし自立した個を期待され、個人から始まるとされる社会が、今の時代において根っこを張ったことでもある。新たな形態でもって、シェアハウスなどシェアコミュニティ、当事者運動、地域産業、非正規雇用者の労働組合、支援関係を越えた活動、環境問題に取り組む活動などが個人から登場していることに希望はある。それでも経済成長の代名詞たる「大企業、会社」は、グローバル化した経済の中で圧倒的優位に守られ続け、その暴走は私たちの生活を脅かし続けている。失われた20年とも言われたが、私は役割を終えた会社がその存続のため、私たちの生活や新しい世代を脅迫し続けた20年だと思っている。社会保障や福祉政策、政府そのものが会社社会に拠るところにあって、いつでも私たちの足をすくえる存在として、会社は責任を果たさず、社会の「障害」となり続けている。
2020年1月15日 髙橋淳敏