NPO法人 ニュースタート事務局関西

「引きこもり問題とは何か」髙橋淳敏

By , 2019年10月21日 10:47 AM

今ある引きこもり問題は大きくは2つに分けられる。一つは引きこもり当事者の問題であり、一 つは社会問題としての引きこもり問題である。

 引きこもり当事者の問題というのは、この20年「ひきこもり」と名指されて、様々にその特性 のようなものが憶測され、引きこもるのは当事者に問題があるという考え方である。例えば、真面目である、頭でっかちである、団体行動が苦手だ、コミュニケーション能力がない、人見知りする、神経質であるなど言い方は様々で、当事者自らもそのような特性と言われるような表現に悩まされてきた。自助会やカウンセリングなど世にあるほとんどのひきこもり支援活動などは、 そのように「ひきこもり」と名指された一人一人の特性のようなものを理解しようとし、どのようにすればその人が今の社会に関わっていけるかを考える上での支援活動である。聞こえはいいかもしれないが、ここには医療(統合失調症)福祉(発達障害、ハローワーク)などが介入してくる余地があり、結局は引きこもり問題は個々の問題であるということで、孤立したままの解決が探られることとなる。社会や人に対する不信感を持っている当事者にとっても、選択的、個別的である都合の良さはあり、この問題に取り組む容易さもあって、今や引きこもり問題のほとんどはこの当事者の就学や就労、コミュニケーション能力などの問題とされてきている。でもこのように引きこもり問題を当事者に押し付けていることが、未だに引きこもり問題が解決しない原因であると私は考えている。

 もう一つは社会問題としての引きこもり問題である。そもそも引きこもり問題は100万人200 万人と引きこもる人がいるということが社会問題になったのであった。それは今でも長期高齢化もあって社会問題としてより深刻な問題となっている。この社会問題としての引きこもり問題というのは、100万人200万人の引きこもりに問題があるのではなく、100万人200万人の引きこもりを生み出した社会が問題だと考える。この場合、問題の当事者は誰かと言えば、社会の側にある。具体的に言えば、所属をせまられる学校や会社といった組織や制度に代表される社会である。問題は引きこもった人にあるのではなくて、学校や会社、あるいは地域に代表される社会が理由で、引きこもる人が100万人200万人にもなったと考える方が正しい。だが、この社会問題としての引きこもり問題は、引きこもり支援活動をするNPO法人や自助会なんかが、補助金などをもらい行政の下請け機関として成り上がっていく中でほとんど考えられることもなくなっていった。 社会問題としての引きこもり問題はなすすべもなく、子どもの数も減って就職率が上がったところで20代くらいは表面的には引きこもる人が少なくなったようなことはあるのかもしれないが、労働環境も悪くなっているしで、行政などがその問題の当事者が当人ではなく社会にあるとして引きこもり問題をどうにかしようとしたことは一つの政策としてもなかったと考えている。

 引きこもる人が多くなったというのは、今の社会に対する警告のようなものであった。今のような学校教育制度を続けていけば、日本の社会はダメになりますよとか、今のような働き方をさせていたら、日本の経済はうまくいきませんよとか、そういった社会の転換点として受け止めなければならなかったはずだ。でもこの20年、日本の社会が引きこもる人に対してやったことといえば、自己責任だとして引きこもり問題を当事者に押し付けて無関心でいることと、今の社会に入れ込もうと問題とする当人を社会や制度に押し付けて問題解決とするようなことであった。その結果、20年経って引きこもる人の数は変わらず、高齢化もし、たぶん学校に行っても、会社でもほとんどの人は引きこもっているのだろう。それで今の引きこもり支援のトレンドはファイナン シャルプランナーというありさまだ。当事者にとっての問題は生き方ではなく、生きながらえ方が問題となってしまった。

 さてどうしたものか、こうなったら引きこもりでも発達障害でも、当事者運動しかないんじゃないか。もちろん引きこもることも一つの運動だと考えて。まあでも、あまり孤立はせず楽しくやろう。働いている暇なんかないよ。

                    2019年10月18日 髙橋淳敏

One Response to “「引きこもり問題とは何か」髙橋淳敏”

  1. Funabaka より:

    まさに、かつて、法人登録、決算申告の代行、指導をやっていただいていた若い方がファイナンシャルプランナーに肩書を変え、いやに厳し目の姿勢になっている状況が切実なものとして思い出された。今、この社会の締め込みに甘んじている不甲斐なさに怒りを自分に向けて、当時者の端くれとして動くのが精いっぱいなのかもしれない。運動は、死ぬまで持続できる人間の権利として、意志を持ちつづけ真摯に周りを見直してみたいと思います。

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