NPO法人 ニュースタート事務局関西

「インターラクティ部」髙橋淳敏

By , 2019年5月17日 12:36 PM

文章を書くときは何かを頼りにしないと書けない。頼りにするのは、出来事だったり、季節の移ろいであったり、他人の思想であったり、自分の感情である。言葉自体がそうで、話し言葉でも言えることだろうが、何かを頼りにして文章は書かれる。なので、批判的な文章であっても、不毛に思えても、文章には書いたその人の信頼がある。

一方で、文章を書くときは何も頼りにしないで書きたい思いがある。依存的になりすぎたり、情報を解析する目的でもなく、結局は何かを頼らなくてはならないが、出来ればあまり頼るなどはせず文章を書きたい気分がある。その気分は、言葉を並べた結果として、自らが何を頼って、信頼して生きてきたかを知らしめることにもなろうし、まだ見ぬ親しき他者に伝わる言葉を捜しているのかもしれない。文章にすることで、頼ってきた何らかとの距離を計る。文章を書くこと自体が批判的でもある。このように文章を書くとき、毎度の事ながら私は引きこもらされたような気分になる。誰とも会わず、自分の内にこもり、何を頼りにしてきたのかを考え、出来れば頼ることなく言葉を捜し、誰に読まれるかも分からない文章を外の他者にめがけて書く。文章を書くときに、このような気分を大切にしてきたが、だぶんそれは引きこもっている状態から外へ出て他者に出会う疑似体験のように思って重ねてきたからかもしれない。長年埋まっていた感情を、自分の直感と時代感覚にて方角を定め一歩推し進めようとする。まだ見ぬ相手に手紙を書くときなどは、あいさつ文の中にも、信頼を込めるつもりで頼らないで書く。それはそれで凡庸になりがちなのだが。

それにしても文章を読む機会が多い時代である。ネットニュースに流れるような文字をスマートフォンなどで眺め見てしまうが、そのような平板な文章に触れていると、内容よりも情報よりも不信が自らの内に積もってくるような感覚がある。それは時代感覚なんだろうが、いざ発信しようとすると私自身が何を頼りにして文章を書けばいいのか、話せばいいのか分からなくなり、途方に暮れる時間が多くなった。民主主義の根幹であるだろう国会討論なんかを聞いていても、対話は飾りにもなっておらずゴミためのような、ゴミにも失礼なやり取りに聞こえてくる。それも代議士が悪いのでもなく、言葉に対する不信の今の時代感覚であろう。かつては文章の深度に感銘を受けたが、均されてしまった感覚である。できるだけ何にも頼らずに文章を書こうとする努力なんて、もはやそのような時代ではなく、平板な文章の中に身を埋めて、出来るだけ引きこもって生活をしたほうがいいような気にもさせられる。

引きこもる生活は、社会を頼りにして生きることである。その生活は社会に依存している。一方で、できれば何にも頼らず生きていきたいと思っている。一人の人間の生として、親や他人にも頼らず生きたい、個人でいたい自立したいと願っている。そこには他者と交流したい猛烈な欲望があるようにも思える。何かに頼らずには生きていけないが、できれば何にも頼らずに生きていきたいのである。会社や労働に頼るのも、親元や福祉に頼るのも大差はない。どんな中でも文章を書くと言うことは、その信頼を裏切ってもいくことでもあり、依存から抜け出していくことでもあり、新たな世界へと参入していく可能性を持っている。

今の言葉ではインターラクティブというのだろうが、文章は読む人がいないと書けないし、話すのも聞き手がいないと話せない。自分は最良の読み手にはなれないので、できれば他人のほうがいい。言ってしまえば、読み手と聞き手さえあれば、文章は作れる。読んでもらえているのか、聞いてもらっているのか分からなければ、気分は萎えてもいくが、そのような人や関係を作っていこうとする気持ちが、その相手が何を信頼しているのかを知ることが何よりも大切なんだろう。まあ文章でなくてもいいわけだが、できるだけ何かに頼ることはせず発信し続けよう。

2019,5,17 髙橋淳敏

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