NPO法人 ニュースタート事務局関西

「教育について考えた期間」髙橋淳敏

By , 2018年12月14日 11:31 AM

 夏と冬に、子どもの貧困問題を課題として活動している他団体であるCPAO(大阪子どもの貧困アクショングループ)との合同で、教育について考える集まりを開催した。大阪近くの和歌山で合宿をして、CPAOがこれから拠点とする場所のリノベーション(改装、主に解体作業をした)を手伝いながら、ニュースタート事務局関西の鍋の会も行い、朝まで12時間通しで話し合うなど、私にとっては楽しい時間にもなった。リベラルな教育方針だという近所の私立きのくに子ども村学園の子たちが来ていたりもして、合宿を通して教育がテーマとなっていた。夏にはそれぞれが学校体験を振り返り、その感想を話し合った。学校が良いものだと思いながらも馴染めなかった人と、学校がそれほど良いものではないと思いながらも適応しようとした人が多かったように思う。反対に、学校が良いものだと思って馴染めた人と、学校がそれほど良いものだと思ってはいないながらも適応しなかった人はほとんどいなかった。本当は行きたいのだけど行けなかった。嫌だけど我慢していっていた。自主性なんかを重んじようとしている学校教育とは、反する感想が多かったわけだが、その受動的とも言える学校体験はそれぞれに今でも影を落としているようであった。その経験はどんよりしたものでもあって、言語化するのが難しく今回それぞれに共感できるものがあったかは分からない。一方で冬の集まりでは学校教育は受動的でなければ成立していないことが暴かれ、さらには自主性や主体性を重んじそれを常に問われる教育への欺瞞についても話題に上がった。

 引きこもっている状態にある時、二つの心的な枠組みがある。一つは社会や人に対する不信から、恐怖し外の世界と関わりを持ちたくないという心性と、もう一つは人との関わりは持っていなければならず関わりたいがこの社会ではどうしていいかわからないという心性である。二つの心性は両立していることが多く、引きこもっていなかったとしてもその二つの心性とは付き合っているといってもいいだろう。この二つの心性は引きこもっている状態にあれば両立し葛藤を生むが、一緒くたにするのではなく分けて考えた方がよい。前者の社会や人に対する不信や恐怖を抱いていることに対しては、それが間違いだとは言えない。人が学校教育や職場などを経験し、現在の親や社会などに不信を抱いていることは事実なのであって、そういうことは本人の勘違いなんかではなく今の社会にあることとして、いかようにしても考えられるので無視することはできない。学校に行っている者や働いている者の中には、そんなことを言っていても始まらないと考える人は多いが、不信や恐怖を持っている者にしてみれば、それをなかったこととしたところで始まらないのである。なぜ不信を持つに至ったかを思い起こし考えようとする態度の中にしかこの心性は解消はされない。もう一方関わりたいがどうしていいか分からないという心性に対しては、具体的に目に見えたりできれば手に取れるような形で他者から提示されるしかないだろう。そこで提示されたものを疑ったり抗えるような余裕があって、自らで探求していく能動性でもって解消していくことになるだろう。親が他者へと転じ、他人が他者へと転ずるとき引きこもりはその状態によらず問題ではなくなる。

 私は学校で黒板や教師に向かい席に座って授業が過ぎるのを耐えていた。受身の態度で、せっかく黙って話しを聞いているのだから、教師が生徒に伝えたい授業をしてほしかったのだが、そのような授業ではなくだいたいはテストで良い成績をとるための授業であった。たまに教科書なんかとは関係のない余談なんかが始まると、とてもわくわくしたことはあった。他の世界が開かれた気分になったものだった。でもそれはすぐに残念な気持ちに変わった。悔しい思いがずっとあった。それでも大学に行けば、伝えたいことのある教師がいて、違う教育を受けられるのではないかと中学高校とその辱めに耐えていた。今思えば耐えることはなかったと思うが、学校以外行き場はなかった。そのような理由で大学に進むが、大学は自由にはなったが、教師たちは他の事もやっていて、生徒に伝えたいようなことがある教師は高校のときよりも少ないかもしれなかった。小学校を過ぎた辺りから勉強は一人でしかやっていなかった。人から教えてもらえるようになったのは大人になってからだ。個人的な世代的な感想かもしれないが、学校教育は辱めを受けたという気持ちが今でも強く残っている。

2018年12月14日 髙橋淳敏

コメントをどうぞ
(※個人情報はこちらに書き込まないで下さい。ご連絡が必要な場合は「お問い合わせ」ページをご覧下さい)

Panorama Theme by Themocracy | Login