「引きこもりの時代」髙橋淳敏
コンピューターやインターネットが人の生活の中に入り込んでから一世代くらいは年月が経っただろうか。人間や自然はその生理現象に則した速度があり、進むだけではない繰り返しもあるが、コンピューターやインターネットの進行は速すぎて、人の生活はその速度に合わせることはできない。だが、コンピューターやインターネットと人間との関わりはもう後戻りできない地点に来ていると、今更ながらボーとしてしみじみ思う。一方的に別れようといって別れられない関係になってしまっているのだった。消費者やユーザーとしての私は適度に新しいもの好きではあって、新しい機械なんかをどうにかして試したり、流行りのSNSなんかも早くにしたものの、結局私の生活の中には馴染まなかったりで、使わなくなり辞めてしまうことが多かった。そんな時は、コンピューターやインターネットがなくても、人生の豊かさや人の幸せには関係ないと思い返すこともある。だけど、コンピューターやインターネットは例えばお金のように、なければたちどころに生活の基盤を失われてしまう存在である。それらがなくてもかつての人は生活できたわけだが、例えば通貨がそうであるように、使い始めればそれらがない生活は難しくなる。むしろコンピューターやインターネットと経済との結びつきが切っても切れない関係になっていると言った方が良いのかもしれない。ほとんどホラーだが人間がいなくても経済はしばらく回るかもしれないが、今の経済にとってコンピューターやインターネットはなくてはならない存在でそれらがなくなればたちどころに止まってしまうだろう。経済は人の生活のためにあったが、今は経済に人の生活を合わせられているような状況である。
世代交代は人間の子孫に取って代わるのではなくて、本格的にはコンピューターに取って代わるのではないかと心配なくらいインパクトはある。ご承知のように、今まで人がやっていた労働の多くを、すでにそれらは担っている。人の感覚や感情もそれらに影響を受けて書き換えられている。もちろん彼・彼女らにやらせずに、人がすることもできるが、平板化された世界市場に出れば人の働きは技術的にも数量的にも過小評価しかされない。仕事をし続けることはできても、等価交換でその労力に見合うだけの賃金が入ってくるというのであれば、コンピューターと比較される労働を、人が市場の中で続けていくことは困難であろう。全ての仕事や労働が彼・彼女らに取って代わるのではないだろうが、誰が思ったよりも速く、より広範に仕事は奪われている。今、人の労働が見直されているとすれば、それは統治や危機管理や社会保障としてのやり方であり、刑務所内の作業や、福祉的就労と言われるようなものやあるいはブラック企業といわれる働き方もそれが元凶にあるのかもしれない。それらはコンピューターやインターネットによって乗っ取られた経済を補完する労働としてしか評価されにくい。
さて、明るい未来はどんなだろうか。金融経済や統治権力から、労働が奴隷のごとく利用されないとして、労働から解放された人の生はいかにして生きられるのか。それはまさに引きこもりが考えさせられてきた課題である。引きこもりは今までの学校や会社に馴染めず、経済やそれが向かう社会から脱落してきた。高齢化し人数もそれほど減らないところで今も脱落し続けている。解決はしていない。だが、脱落したかに思えたその地点に、多くの人類が到達しようとしているのではないか。働かないのがいいのではない、働くとは何なのかを考えさせられ、社会や教育や人間関係がどうあるべきかを孤独に考え巡らしたのではなかったか。その答えが今の経済の側にあると、不信に思っている社会と関われず立ち止まるしかなかった。自らを卑下したり、憤ったり、他人と比較したりするしかなかった。でも、その答えは、コンピューターやインターネットなどにより脱落させられたこの地点にこそあるのではないか。今の経済は間違っていて、脱落させられた人間の経済や社会を作っていくことを共に考え、実践していければよい。もう一人ではないのだ。
コンピューターやインターネットによって解放された気持ちは大事にしつつも、奪われた大事な仕事は再び取り戻さなくてはならない。誰かのために料理を作ったり、ものを届けたり、植物や動物を育てたり、作品をつくったり、子供の世話をしたり、話を聞いたり話したり、大切にするものを修復したり保管したり、やりたくないことはやらないのがいいが、やるべきことはたくさんある。
2018,1,19 髙橋淳敏