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「子どもは産まなくてもいい」髙橋淳敏

By , 2017年11月18日 2:00 PM

前に少子化なんかの話題の時に、他の動物にくらべて人類だけが、単に産みたいだけ産ませたいだけ産むというような種の保存的本能や行為から、逸脱できるのではないかといった意見を、ある動物好きのお母さんからうかがったことがあった。その方は種の滅亡といったことまで話されていたのでそこで同意することはなかったが、私たちは幸せかどうか分からないが、後先考えずに子どもを産むとか産ませることを忌避する倫理を持っているか持たされていて、子だくさんな夫婦であっても経済力を無視したりパートナーを変えたりして子づくりするようなことは非常識なこととされている。歴史や民俗的にはいろいろあるだろうが、現在の日本や文明国と言われるような圏内では、男女の一夫一婦制であることが望まれていて、自由恋愛はあっても子づくりは事前にも管理されている。他の動物にも環境によって出産を調整するような種はあるが、当事者同士の男女の同意なんて問題とも違って、近代文明によって包摂されている人類社会は子どもをただ産みたいときに産んだり産ませることをさせていないのは確かである。だから産まないことを評価されてもいいはずだ。

 

その意見がショックなのは、若い人が経済的にも子どもを産めない環境にあることや人口減少する政策を批判しては、少子高齢化の社会をどう生きればいいか、子どもを育てやすい社会とは、なんてことを今までも考えていたのだが、子どもを産まなくなるような社会を前提としては考えてなかったと気づくわけである。子ども自体が少なくなったり居なくなってしまう社会は、それはよくない社会であって、子どもこそが希望であると、だから子どもは増えるのがいいと考えているはずだ。現に私も子育てをしていて産まれてきた子どもは希望であるわけだが、希望であるはずの子どもは増えていかないのである。その理由として子どもを産む世代の生活の見通しの立たなさが指摘されてきたが、子育てを巡る様々なニュースとその扱われ方を見ていると、少子化対策なんてことを口々に言っていても、自分の子どもは欲しい人はいても、社会は全体として子どもが増えることを望んでいないと思うことが多く、そもそも一体だれがどういう目的で子どもが増えることを望んでいるのかと疑問に感じることが多い。

 

子どもが産まれる話しではないが、私は物心がついたあとに、まだ大人にはなっていなかったが社会から望まれなかった経験がある。それは私自身の出発点であったように思う。だから望まれる人になりたいと、やりたくもない勉強をしたり、労働商品として価値のある人間になろうと励んだり、そのような価値基準で人のことを馬鹿にしたこともあった。自分の親は身勝手なところもあったが、私自身は親には望まれて産まれてきたと思える。でも親以外にただ生きていることを受けとめてもらえるような経験は、学生の頃に遊ぶ友人関係くらいしか思い当たらなかった。中学生になり社会に出ることが意識されると、無条件に自分の生を受け入れてくれるような人はいなくなった。あるいはいたのかもしれないが、そのような人の存在は疑っていた。そして素直にはなれず恰好をつけることになる。それが大人になることだと考えていた。でも大人になることはそういうことではなくて、子どもの生を条件付きではなく喜び、共に生きることができるのが大人であると知ったのは、自分が親になってからつい最近のことだ。よその子どもを受け入れられないような社会は、子どもの存在を望んでいるとはいえない。生産性のある大人になるような子しか受けつけないのは、子どもの存在自体を社会としては望んでいないことでもある。親たちは自分の子どもだけは他人に望まれる存在にさせようと、世間の欲望の対象にさせるべく子育てに汲々としている。そんなことをしないで、よその子をそのまま受け入れることができれば、少子化問題は解決していくはずなのに。

 

子どもの存在はいつでも希望である。それは大人になって役に立つからとかではなくて、子どもの存在そのものが希望である。生きることの何たるかをその若い身体に宿し、人間の何たるかを全身で教えてくれる存在である。引きこもっている子を愛していない親はいない。ただその愛のようなものは親子間だけでは子に伝わらないし、親もその気持ちに自信はもてない。私は親には望まれて産まれてきたが、ある時から親の愛も条件付きではないかと疑っていた。それは外に無条件で受け入れてくれる大人の存在がなかったためだと今にしては思う。親の愛が足りなかったなんてことではない。親子だけの閉じられた関係では子育ては不可能だ。子どもを望まなくなった社会が子どもを望むようになるには、子ども自体が希少な存在となって、立派な大人にさせるために産むのではなくて、子どもとして望まれて産まれてこなければならないのかもしれない。そんな時代なのだから今無理をして産む必要もないだろう。といって、たとえ親から望まれなかったとしても、産まれてきた子どもの生は誰かが祝福すればいい。同性婚も認めていけばもっと子育てしやすい社会になるはずだ。最後に矛盾するが、これらのことを考えることができたのは自分の子どもがあったからでもある。明日には産まれてくるだろうまだ名もなき友人の子を祝福するとともに、私たちの娘2人に感謝する。

2017,11,17 髙橋淳敏

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