NPO法人 ニュースタート事務局関西

「相模原障害者施設殺傷事件から1年」髙橋淳敏

By , 2017年9月15日 9:45 AM

毅然とした態度で前を向いているが、のぞき込んだカメラには泳いだ目が映し出されていた。周囲から多くの疑惑をもたれているが、開き直って取り合わない。毅然としたように見えたのは、これ以上引き下がっては、ほころびからすべてが崩れてしまう自覚があって、嘘をつき通す必要があったからだ。誰かと言えば、政権末期の首相や大臣たちだ。2017年春の国会で精神保健福祉法の改正案は通らなかったが、裏でテロなど準備罪なるものが成立してしまっては、世間が精神障害に対して無関心を決めていたにすぎないだろう。今回のことで私が思い出したのは、精神病院の中にいて治療者と名乗っている人たちの顔や声色は、この首相や大臣たちの見た目とそっくりなことだ。見聞きしたければ、入院患者のふりをして、病院で働いている人にこう聞いてみればいい。「ここにいれば病気は治りますか?」と。あとで引き返して、鎮静剤を打たれるかもしれないが。医者は投薬治療をこのまま進めてよいものなのかの自信はない。いや、むしろこのまま進めてもだめなのだけは分かっている。「仕方がない。家族のせいだ、地域に理解もない。」少なくとも何十年もの間、彼・彼女らはそうやって問題があった人を、せめて家族や地域のためにと隔離する仕事をしてきた。患者や症状と向き合ってもどうしようもない。毅然とした態度の先には、健常者が見る蜃気楼を見据えている。過去にあった日常が手本となり、それらの日々が繰り返されるように、埋まらない溝を埋め、その場から逃げるようにして働いている。それら医療従事者の労働により、過去は現在となり未来が担保されている。そして、そこに新しい日が訪れることはない。誰かが決めた日常から、自らが抜け出そうとしなければ、新しい未来はない。そこから抜け出すのに支援者も非支援者も医者も患者も区別はないはずだ。

 

この頃は、3か月でほぼ強制的に退院させられる。病院経営では入院患者は3か月で不良債権化する仕組みらしい。薬漬けにさせられては副作用で地域生活がままならず、再び入院することになる。退院して3か月もすればまた経済的付加価値が戻るので、この入退院のスパイラルは止めようがない。病院では治療ができない。その当たり前のことを、医者はじめ従業員も知っていて隠している。地域や国家の成長のために障害となる者を危機管理して収容するのが目的の施設なのである。社会的入院ともいわれるが、措置入院者を管理監督するなどの法案は、精神病院が収容所として機能していないと指摘されているのであって、治療者と名乗るのならばボイコットしてでも怒らなくてはならないはずだが、いつまでも誰のために働いているのか。たぶん植松も似たような施設労働をしていたのではなかったのか。彼の働きによって助かっただろう被支援者が、家族にも地域にも本人の生にも接続されなかったような経験があって、それで国家なんかを持ち出して、間違った政治家や権力者が妄想しそうなことを、自分なら執行できると思ったのかもしれない。そして、このような施設労働や措置入院を経験した植松は、自らも国家に管理監視されていたことに気がついたのだ。最終的に自らの生を粗末に扱かわざるをえなかったことが、今回の事件の発端となっただろう。彼は弱く未熟な介護労働者であったはずだ、施設の仕事を自らの力で変えることはできなかった。法律や病院や施設の中身を大きく変えることができるのは、その責任を与えられた人たちの側にある。

 

 短い命をその死に抗いながらも生きなくてはならないのだ。申し訳程度にも及ばなく、与えられた「障害者」なんて生き方にはこだわっていない。情け容赦のなくグローバル経済が当たり前の顔をして私たちに迫ってくるのであれば、その大きな顔を情け容赦なくひっぱたく。そういうことがあればひっぱたけるように、日ごろからの情けには気をつかっている。その多くは小さな集まりである。企業に就職するのも労働者としてジリ貧なので、自分たちで仕事を作らなくてはと、「スローワーク」と名前をつけて、駅前のビルの上に「コモンズ」というカフェを10年前に作って運営した。しかし、働いてくれた人に時給を支払うための経営が難しく5年ほどは踏ん張ったが、結局は就労継続支援事業に乗っ取られたのだった。今では平日昼間は精神障害者と言われた人ばかりが働くようになったが、それはやりたかったことと違ってしまった。私たちの多くは障害者手帳にも薬にも頼りたくない人がほとんどで、福祉事業がやりたいのではないからだ。かつては大学生の不登校と言われて問題とされるようになったことがきっかけで、私たちの活動は始まった。のちに「引きこもり」と呼ばれるようになったが、私たちはその「引きこもり」がなぜ問題となり、個々にもどのように解決されていくのかを考え続けている。引きこもるのだからこちらから行かなくてはならない。当たり前のことである。一つ一つの家を長い期間かけて訪問したりする活動を通して言えるのは、時間と費用もかかるコミュニケーションである。だが、そのような出会いが、私たちが生きることを支えている。

 

 イタリアには、精神病院がない。最近トリノに旅行にいった友人から、精神病院を不法占拠(スクウォット)して、アナキストだかコミュニストだかが社会センターにしているとの話しを聞いた。正直羨ましい。日本には世界的にもおかしなくらいたくさんある精神病院が、なぜイタリアではなくすことができたのか、その理由はいくつかあるとは思うが、トリエステの精神科医が来日して話していたことに重要と思うことがあった。日本でいう精神病の急性期の状態を「クライシス」と言うそうだが、その「クライシス」は本人だけでなく家族や周辺のコミュニティや精神医療スタッフにとっての「危機」であり、乗り越えて成長するための「機会」であるというのだ。もちろん全ての危機に対してそのようにあれるか、乗り越えることができるのかは分からない。ここからは私の解釈が入るが、しかし日本の精神医療はそのような「クライシス」という認識はなく、急性期はなんとしても「回避」されるものであると考えているだろう。それが「機会」であるのならば、日本では重大な治療の「機会」をみすみす「回避」していることになる。急性期を皆で乗り越えようとするイタリアと、鎮静剤を飲まし拘束し本人だけを隔離する日本の医療と決定的な違いはこの認識の違いにあるのではないか。そしてまさに今回の事件を通じての法による管理は、このようなの日本の医療の体質からきていることは間違いないだろう。この法案の成立は、日本の現代精神医療の敗北の歴史になろう。

 

  私たちの活動などを通して引きこもっていた状態にあった人が出てきて、しばらくして介護の仕事につき、一人暮らしをして地域生活をするなんてこともある。そういうことがあってからもだいぶと年月も経ち、周辺で一人暮らしをする人も増えた。彼・彼女らは病気や障害や貧困で自分よりも大変な人がたくさんあるだろうと、自らの苦悩を語るのは遠慮してきたような人でもある。外に出たことによる出会いの中で、他人の大変さも知ることになったが、自らの苦悩を隠す必要がないことが分かるときもある。施設などでの仕事の中で、介護をされている人が、家族や誰にも必要とされていないことを知るようなこともある。そのような出会いに戸惑いながら、出会い自体をなかったことにして、また自らの苦悩を隠し、目の前の労働に逃げ込むこともある。今私たちは、そのようにして多くなった一人暮らしを少しでも良くしたいと賃貸生活者を中心としたニュー自治会を作ろうと準備している。地主たちの自治会がなくなりつつある昨今だが、仮住まいが長引いた人が、公園の掃除くらいやって、地域は自分たちの場所だと、のびのびとしたいのだ。今の社会状況はクライシスなのかもしれないが、この機会を回避するのでなく、地域で乗り越えたい。

2017,8,19髙橋淳敏

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