「大学教育の現在」髙橋淳敏
小中学校生の頃から、大学へ進学することが前提にあるかのような教育が、ここ数十年続いていて、進学率の上昇でも明らかにその状況は顕著になってきている。大学を卒業しないとまともな仕事ができない、十分な給料がもらえないと考えられていて、大学を受験するための勉強と義務教育はほとんど同じことになっている。小学校からあるいは幼稚園を含む家庭教育から、教育は大学に行くことにあると、一貫した答えがあるかのようで、それ以外に考えられない思考停止が親や教育関係者の中にある。逆に言うと、障害や貧困などの家庭の事情で大学に行けなさそうな子どもは学校教育から排除されてしまう。小中学校ありきだった教育は逆転して、大学進学ありきの教育プログラムへと変わった。大学の進学率が30%代だった20世紀の終わりに、私たちは「大学生の不登校」という新たな問題を取り上げ、それを引きこもり問題として考えた。当時、引きこもり問題はすでに社会的に深刻であったが、大学生の不登校は大学をやめれば解決すると言っていた。それは冗談のような話しでもあるが、そのころは就職氷河期と言われ、大学を卒業したところで就職できない人が多かった。働くこと一つとっても、大学に行きたくない人が大学に行かなければならない理由がない時代であった。なによりも7割くらいの人は大学を卒業していないわけで、親から離れて生活をするとしたら、卒業以外の方法で仕事を考える必要があったし、その時代の大人たちは大学を卒業していない人の方がまだ圧倒的に多かった。だが、大学を卒業せずしてどのような生き方が待っているのか、グローバル資本主義経済真っ只中、団塊ジュニア世代はそれぞれが孤立させられ路頭に迷うばかりだった。そこで現在、大学全入時代が到来しようとしている。
経済成長に伴い進学塾などがサービス業として教育の産業化がすすんだが、もはや問題はそこにもない。人口減少と経済不成長の時代を迎えると、教育産業も例外なく金融経済に蝕まれていった。団塊ジュニア世代が入学する頃に乱立した私立大学は数年後に淘汰されると大方の予想があったが、大学がなくなることはなかった。大学教育は良いものだと疑われることなく、教育産業として大きく開拓された後、不況下では潜在的な需要を見通し拡大していった。その網にかかるかのように、子供の数は減っても、働き方が悪くなっても、大学進学率は上がり続けた。最近では奨学金という負債を回収するビジネスが問題になっている。大学教育も学生生活も根っこから売買されていると考えていい。大学の卒業論文を代行してくれるサービス業がある話しや、大学入学試験のほとんどを大手予備校が引き受け合格者まで操作しているなど、この手の話しは枚挙にいとまがない。東京大学生の親の多くは高収入であるとの統計が出ていて、勉強しなくてもお金さえあれば東大を卒業できるルートだってあると疑われても仕方ない状況である。学校で学ぶ機会はそのような格差があっては平等に与えられていない。学校システムは前近代的なってしまったと考える。それらは教育産業として被害者的でもあるが、公文式の教育が国民を統治する手段としてコストパフォーマンスが良いと東南アジアに輸出されている件や、近年になって化学兵器の開発に協力する大学研究機関に多額の国費が投じられるられるようで、軍学共同ともいえる大学が直接加害者となる話しもでてきている。加計学園獣医学部開設などは軍学共同の事態からも検討すべきとの指摘もある。
むろん私たちもそのような事態と無関係であるわけでなく、むしろ関係していることとして考えてきているが、直接影響しうるところとしては「自立支援」というワードがある。自立支援というワードは新しく、1980年代後半に出てきたようだが、中国人残留孤児問題や発展途上国の支援などから出てきた言葉であるようだ。このようなワードが行政からでてきたのは、中国人残留孤児を助けたいのではなく、発展途上国をただ支援したいのではなく、中国人残留孤児を生活保護下に置いておけないことと、発展途上国にいつまでも支援し続けるわけにはいかないことからきている。そうでなければ「自立支援」などと言わなくとも、ただ中国人残留孤児支援、発展途上国支援としてやっていればよかったのだから。その後、「自立支援」は行政や福祉で流行る。障害者、ホームレス、女性、生活困窮者、高齢者など、今や自立支援が最近出てきたワードだと意識されないくらい流行っている。2000年代半ばには「若者自立支援塾」が登場した。国策であったが、全くといって効果はなかったのですぐに終わることになった。要するに内容がないのだが、問題はその政策に携わる誰もが若者の自立について考えがなかったし、若者を支援しなかったことだった。そこで行われたことといったら、いつまでもお荷物でいるのではなく早いこと納税者になりなさいというお決まりのコミュニケーションでしかなかった。「自立支援」というワードには、その出自からもそのようなコミュニケーションしか行えないようになっているので当然ではある。そこには、引きこもりを産んだ社会としての反省がない。
「学校教育」でだめなら「自立支援」ということだが、これでは引きこもりは減らないはずである。あげくおかしな人とされて「医療」なんかが出てくるが、その批判はまた別の機会にしても。引きこもりの問題は成人した話しで自立支援と考えられがちだが、むしろ小中学校の教育のほうが深く影響しているのではないかと思われる。これまでの流れで教育を続けていてはいけないが、そのためにはみなが大学に行けばうまくいくなんて考えないほうがいいし、行かないよりは行ったほうが良いだろうという考えも疑ってみる必要がある。大学イコール自由なんてイメージが昔はあったが、現在の学校教育はがんじがらめの状況にあることは知っておいたほうが良いだろう。
2017年8月19日 髙橋淳敏