「親の責任とは」髙橋淳敏
引きこもり問題があるのは引きこもらされた人の責任ではなく、社会の責任だとここでずっと言い続けているが、それでは社会の側は都合が悪いので認めようとはしない。大学をはじめ教育の産業化、雇用や労働の形骸化、子育て家族のジェンダー問題、グローバル金融に支配される新自由主義経済、地域やネットワークの限界、医療や福祉の経済依存、コミュニティーや宗教の信仰についてなど、パラレルなものも直接的にも関連する問題が多い。なので書きたいことも多いが、各分野でそれらの問題について告発している人は常に少数派だがあるし、ちゃんと書くには勉強する時間もない。ここで書いたものを読み返しはしないので、何度も同じことを言っているだろうし、他人が言っていることを大げさに書いたりもするものだから、読む人も飽きそうだが労力は使っていて、最近ここで書いていることについて励ましをいただくことがあった。いくつか読んだ人に、実は私の言っていることは一つなんだと話すと、うん分かっていると。分かっているのならなぜ読むのか。たぶん書くことと、その人が読む理由は同じなのかもしれない。普段はあまり見えにくい大事なことを、書くことや読むことによって確認しているのかもしれない。その大事だと思っていることが大事となれば、引きこもり問題は解消されるはずなのだが、そうならないからいつまでも執拗に書くしかない。批判を受けながらもするこれら確認作業が、地味だが能動的な方法である。何かが引きこもり問題を勝手に解決してくれるかと言えばそんなことはない。引きこもり問題がない社会はないが、引きこもり問題の深刻さは社会状況によるのである。「引きこもり」が少ない社会が幸せな社会だとは言い切れないが、「引きこもり」が多い社会は貧しく不幸な社会である。引きこもり問題が深刻である、あるいはいつまでたっても解消されないことは、その存在が社会に異議申し立てをしているのだと考えている。引きこもり問題に取り組んでいる私たちの活動もそうだが、親に責任があるとすればその問題を一番近くで受けているわけで、その所から外に働きかけをし、社会を変えていく責任が生じている。そして、それは育ってきた子どもを信じ、広くひらかれた社会へと送り出すことでもある。引きこもり問題が深刻であり続けるダメな社会を変えるのはそういったダイナミズムで考えていくことが、我がことだけでない引きこもり問題の解決に必要なことである。あせって取り組むことではないが、すぐに取り組んでいくべき問題である。そして引きこもり問題は新しい問題であって、その解決はどの問題にも回収されないし、新しいやり方でしか解決されない。そして、それだから引きこもり問題に希望があると考えている。
「引きこもり」は親や家族によって明かされる。本人から「生きづらさ」などについての訴えはあっても、それは引きこもり(だった)問題であって、目の前に出てきたその人は「引きこもり」ではない。ましてや、社会や第三者から「引きこもり」が明かされるようなことはあまりない。ニュースタート事務局関西が活動し始めたのも、親たちから明かされた「引きこもり」についてであって、本人が出てこられたら問題はなくなるか、その在り方は変わっている。引きこもりだった人は、コミュニケーションや親から離れた生活のことや、社会でやっていくことについて悩んでいたりするが、それはもう問題ではなく大いに時間をかけて、本人や周りの人たちが協力して取り組むことであって、それらに共感をしてくれる他者があれば、もう「引きこもり」ではない。もちろん協力したり共感したりすることがやりにくい「生きづらさ」はあるが、それは他の社会問題へと開かれている。社会へと出ていった引きこもりだった人の動静を気にしながらも、ふりだしに戻るようにして、親から明かされる新たな「引きこもり」へと私たちは帰える。そこではじめに取り組むのはいつも親として何ができるかであって、今も変わらず新しくも古くもある課題を、新たな親や残された親とともに考えることになる。
親は育て方が違っていたのではないかと自らを責め、すぐにでもやっていたことをやめて引きこもりやすい環境を整える。そのこじれた引きこもり状態になって何年かして親が相談に来られることが多い。私にはその親の育て方がいいものなのかだめなものだったのかは分からない。それは人の人生が他人から見て、いいものであったかだめなものであったか分からないように、私から見てひどい育て方をする親でも、子がそれなりに引きこもらずに育つこともよくある話しだし、むしろ引きこもり問題を抱える親は一般的には良いと考えられる子育てをされてきた人が多い。でも、子どもが引きこもったくらいで取り下げてしまうような教育というのは、間違っていたのではなくて大したことがなかったのであって、それで引きこもる環境だけを整えて子育てや子どもとのコミュニケーションをあきらめてしまうのは親として無責任としかいえない。親の話しをうかがっていると、会ってもいない引きこもっている子どもから、「親が考えていることは大したことないのでもっと外の世界に触れて勉強してきなさい」と言われて、このようなところに来ているのではないかと思うこともある。そんなときに特に思うが、まずもって解決すべきは親の人間不信である。医療や福祉などの社会制度を盲信することではない。引きこもり問題は思っているよりも広く社会へとひらかれている。目の前にいる他者をどのようにして信じられるか、信じているかである。
2017,5,19 髙橋淳敏