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「合意形成について」髙橋淳敏

By , 2017年4月7日 12:57 PM

引きこもる人を訪問するときに、家に訪問することを報せても、本人と訪問者の間には、その合意はないのがほとんどである。合意がないことが良いのではなくて、合意がないところから始まるのが引きこもり問題の訪問の特徴である。本人のみならず家族までもが家を訪れる第三者を快く思わないのに、本人との合意なく訪問者が家に入っていくことを、ひどいと批判する人はある。訪問者や家族の意思を押し付けるならひどい話しになるだろうが、家族の誰かの同意があれば家に入ることは問題にならないと考える。拒絶したいのであれば、訪問者に対して直接意思なり態度を示し、あるいは第三者は家に入れないと家族での合意形成が必要になる。その家に住む全員の同意がなければ、家に入ることは許されないと考えもするが、引きこもることが問題になるのは、家族内にその同意がないこと、原因は双方にあるがひいては合意形成ができないことにあるので、家族内でできない合意形成を目的に第三者が介入するのは、訪問者の一つのスタイルとなろう。訪問者の中には「ひきこもりをすぐにも引っ張り出します」などの触れ込みでやってくる者があったり、「本人を家から出してくれればいい」などと親だけに都合のいい要求があったりと、そこにひどい意思はあったりするが、合意形成をする土俵が一般的な社会にではなく、そこから隔離されている家の中にあることを訪問者は忘れてはいけない。いずれにしても問題があるとすれば、合意形成のやり方にある。

 

重要なことだが、合意は必ずしなくてはならないことではない。むしろ合意ないところで、「自由」や「自己責任」に表される言葉で自分だけで決めるようなことや、「普通」や「常識」という言葉が表すように暗黙の了解で物事は進んでいる。人は「普通」や「常識」といわれる社会の中で、「自由」や「自己責任」という個人に引きこもる日常を送っている。では何の合意形成をするのか、それはすでに一緒に何かをやっていることについてであり、一緒に何かをやめるけどもお互いの思いが違っていることについてである。運命共同体になってしまっている核家族であれば誰かが引きこもる生活を共にこれからもやっていくのか、あるいはそのような生活を一緒にやめていくのかに合意を作っていく話しになろう。そして合意とはその当事者間で成されるわけだが、引きこもりの問題も当事者だけで合意形成ができるものではない。なぜならば、引きこもる原因の根本は社会の側にあり、私たちが「家族をひらく」と広く社会に働きかける活動をしているのにもそこに理由があるのだが、端的には経済が核家族を引きこもらせているので、親と子の合意が社会化されてはいかず、結果として合意形成自体があらかじめ破棄されてしまっている。引きこもっている問題を社会が「自己責任」や個人の「自由」などとしてネグレクトし続けるのではなく、「普通」や「常識」などの言葉を越えて社会の側が引きこもり問題に寄ることによって、その所において何らかの合意形成をしていく作業である。その作業をきっかけに、合意には至らず当事者同士が別々に歩みだす結果が個々の引きこもり問題の当面の解決であったとしても、その合意形成のやり方は誰かが引きこもる人の意思に歩み寄ることからしか始まらない。

 

多くの無関心の背景に、引きこもりには意思がないという誤解がある。あるいは支援者と言われる人に多いが、引きこもる意思を持っているという詭弁がある。前者は盲目的で分かりやすいが、後者は引きこもることは問題でないと本来は関われる者が引きこもり問題を抑圧しているだけなので、話しにならず引きこもり問題に無理解といえる。当然だが、大切なのは引きこもる意思をもっていたとして、それは何によってもたらされたかであり、それこそが意思の中身になる。合意形成には親や訪問する側の考えもさることながら、本人の意思が大切である。本人に意思がなければ合意形成には至らず、家族や訪問者の意向に従わざるを得ないし、それを合意とは言わない。家族は理解できないか理解したくないからか本人の意思は分からないといい、家族での合意形成が破棄されていれば、それによっても引きこもる期間は長期化する。次には、引きこもっている本人に意思がないと親が判断することもあるが、何度も言うしかないが本人に意思がないわけではない。引きこもっている状態は結果としてだが、そこまでに至る思いがあって、引きこもっている状態でそれらの思いは停滞しても確かにあるのだから。特に引きこもり問題に関わる第三者は、本人に意思がないと考えてはいけない。そして、逆に引きこもっている人は訪問者にも意思があると考えている。訪問者は守られてもいない他人の家で、カウンセラーのように自分には意思がないふりをしてはいけない。家に第三者がいるのは自明のことではない。合意形成が目的であれば、まずは訪問者自らの意思を相手にわかりやすく示さなくてはいけない。それができなくて家族の間で合意をしなさいと励ましても、それは他者にも第三者にもなれない。それでは合意形成ははじまらない。

 

この合意形成について考えたのは、引きこもっていた人が出てきて、職場で意思を示さなかったことを理由にその仲間が追いやろうとした状況の中で思ったことにある。そこで合意形成が問題となり、さらには必要になった。ここでは大切だと言った引きこもる人の意思は何なのかには答えていない。一つは各々としか言えないだろうが、多くはその意思がわかる前や合意がされる前に、個別の引きこもりの問題は解決してしまうのだ。拡大解釈されるのを恐れず言えば、訪問者が親や一般社会の代弁者ではない違った存在だと分かれば、引きこもり状態がそれを境に解消することがある。だから合意がされなければ引きこもり問題が解決しないのではない。むしろ、既存の社会という土俵の上で行われる、今までも繰り返され引きこもるきっかけにもなった「強要」に近い合意からは逸脱する話しである。それで元ある土俵に来てもらうのではなく、訪問して出向くところにおける相手の土俵で、今までに想像だにしないコンセンサスが生まれる。それを出会いといい、そこで行われることがコミュニケーションであると思っている。

2017,4,6  髙橋淳敏

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