NPO法人 ニュースタート事務局関西

「めっちゃごちゃまぜええやんか」髙橋淳敏

By , 2016年10月16日 10:00 AM

9月24日と25日に共同連という集まりの全国大会が、堺市のビッグアイという集会施設で、障がい者が中心となって500名以上が参加し開催された。その中で『社会が「人」を障害化する』というテーマでニュースタート事務局関西が分科会を担当した。引きこもりの問題を考える上では、当事者と言われる個人が、努力や能力ではどうにも解決されず、協力するのでなく競争させ、共生するのではなく孤立させる今の社会や、その社会を信用できず自分だけでなんとかする当事者や家族が問題なわけだ。その問題を解決するためには誰でも一緒に居られる「場」をつくり、そこへ引きこもっていた人をはじめ様々な人が寄り合うのでもなければ、そして新たな出会いからの生活の「場」が生まれなければ、引きこもらされる社会の構図は相変わらない。それで現在のように減りもしなければ長期化するしかないわけで、ここの投稿でもその辺のところを何度か書かせてもらったが、これら引きこもりの問題をもっと前からある障がい者問題と比べてどうなのか問うてみたのが、今回参加させてもらった一つの目的であった。

ご一緒した共同連代表の堀利和さんの話しから、私の勝手な解釈になるが紹介させてもらう。『社会が「人」を障害化する』というタイトルは堀さんの本から拝借したものでした。障害には自然概念的な意味と、社会概念的な意味がある。例えば、目が見えにくいのは自然概念的なとらえ方だが、目が見えにくい人が「人並み」に生活ができないのは社会概念的なとらえ方である。自然概念的な障害は治りにくいとされているので、問題は「人並み」の生活ができるよう社会的に障害を取り除いていくことにあるわけだが、社会保障など制度は整えられても、結局は当事者や支援者の自助努力にその問題は追いやられている。その大きな原因の一つが、現在の資本主義社会での働き方にあるというのだ。障がい者の障害者たるゆえんが、資本主義社会の中にあるという話しなのだが、この辺の説明は多少ややこしく、当日もあまり時間はとれなかったので端折るが、要するに労働力商品(労働力の売買)としての能力が足りなかったり努力する機会があたえられていない障がい者は資本主義社会の中で働くことから排除されている。障がい者が働くことは福祉的労働と言ったりする。そして、消費者として一方的にしか関われないのであれば、それは社会経済活動からも排除されていることになろう。

このように障がい者が置かれる立場を聞いて、私は引きこもりの置かれている状況に近いと思っている。引きこもりが労働力商品として能力がないとされるところは、繊細さや経験のなさであったり初心さ若さの蔑視であったりするだろうし、社会経済的な理由でちゃんと雇用する会社がなかったりで努力する機会は奪われ、労働力商品ともなれず社会から必要にされないことで、厄介者とされる。引きこもりも一方的に経済活動から排除されている。アルバイトすればいいなんて話しではない。障がい者との違いがあるとすれば、健常者として「本人次第」や「自己責任」などとより競わされてきたため、友達も少なく人との関わりが貧しいので、社会概念的な障害の度合いはより深刻だと考えている。このような引きこもりが発達「障害」などと呼ばれるようになったのは当然の社会的帰結だろうが、それでこの「障害」が本人の中にあるとして、脳の器質性の障害を疑ったり、本人や家族がコミュニケーション能力のなさを嘆くのは不毛である。いまだに精神科医が発達障害に効く薬などと主張していて、そういうのにはもう本当に怒るしかない。私が話した(かった)ことは、このようなことであるが、堀さんが発達に「障害」があるなんて、失礼な話しだとコメントしてくれたのは有り難かった。「人」としてまともに発達したからこそ、単には労働力商品になれないのだと私は言いたかったのだった。

それで我々はどうするかで、肯定感の話しになった。1970年後半、母親が脳性マヒの子どもを殺し、その母親に対して同情するような話しで減刑を懇願する動きがあったのだが、その減刑を求める潮流に猛然と抗議したのが、脳性マヒの当事者団体だった青い芝の会だ。脳性マヒを理由に母親がその子どもを殺して許されるのならば、脳性マヒ者は生きていてはならない存在ではないかと、その存在を社会から全否定されたので全存在を賭け、彼らの運動は脳性マヒという生を絶対肯定した先に、健常者社会を糾弾するに至った。有名な障がい当事者運動なのだが、これにより障がい者の「生」についての理解が深まり、社会的な障害が彼らによって取り壊されたことがあったと考える。今でもこの運動に救われる当事者もいるわけだが、一般的にはあまり広まらず忘れられるため、相模原のような悲劇は起こる。現在、われわれは労働力商品になれず、社会経済活動からその存在を一方的に否定されているのだ。堀さんは搾取すらされないと書いた。排除されたわれわれは、お互いの存在自体を肯定すべくめっちゃごちゃまぜに集まりを作っていくのがいいだろうと。分離教育反対!

めっちゃごちゃまぜええやんかとは大会テーマであった。聴いてくれていた人からは、障害というのは介助するのもされるのも痛かったりしんどかったりでもっと身体的な苦痛や交流も伴うものだと、それぞれの「障害」を知らないのではないか、そのためには喧嘩できるくらいがいいのではないかなど、さまざまに意見をもらった。交流していく場所と時間が必要だと感じた。引きこもりを経験した人の中には介護やヘルパーのような地域の仕事に就く人が多い。支援計画などを立てさせられるだけでなく、ゆくゆくは支援を越えて協力して地域生活を作っていき、グローバル金融経済に対抗すべく地域経済を作ってはいけないものかと思うのだった。

2016,10,14 髙橋淳敏

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