NPO法人 ニュースタート事務局関西

「引きこもり」髙橋淳敏

By , 2016年4月17日 10:00 AM

90年代中頃までは、「閉じこもり」と言ってみたり、「引き篭もり」と漢字表記であったり、周囲にあることは知っていても相談することもままならなかった。「社会的引きこもり」という言葉が出た90年代後半に、存在も広く知られるようになり、一躍社会問題となった。「フリーター」なども問題になっていた時代で、責任を企業社会や行政には問わず、いずれにしても若者の消極的な社会参加として、当人やその家族に問題の原因があるとしたし、このことは今もさしては変わりない。就職活動をして、私企業の正社員になるか公務員にでもならない者や、学校にも行かず就労しない者への一貫した世間の眼差しや偏見といわれるものがある。当時は、いわゆるバブルがはじけて間もない頃であったが、高度経済成長をしていくことを夢見て、次の機会を待つように内部留保など保身しかない会社を前に、社会や学校に出ていけない若者たちは自らを原因とされ、挫折の機会すら失われ引きこもった。社会は若者を積極的に排除し、そのうえ学校に行けなかったり働けなかったりする者を理解しようと歩み寄ることすらしなかった。当の本人たちはそのような社会にある他人と関わり合いになりたくないのもあって、引きこもりを自らの責任としその状態や自らの存在を恥じた。その数は100万人とも200万人とも言われたが、当然にして定義もあいまいであり、それも当然だが引きこもりを訴えるのが本人であることはないので問題として表立たず、現在まで定義もその数も定まらない。それで現在は70万人などと言われているがその根拠もなく、分かったところで社会の側からの問題としないのであれば、何の解明にも至らない。そして引きこもる人は減ってはおらず、高齢化している。一億総中流社会と言われた時代から、中流層がなだれ落ち、いわゆる格差が広がるわけだが、富裕層はそのほとんどを金融投資に使い、中流の少なくなった実体経済は縮小し、働く場所に限らず子どもたちが大人になろうとした時の行き場がなくなった。そこで、ローンも払い終わった住居費用がかからない実家などで、ほとんどお金も使わず孤立無援の暮らしている状態である。

 

かつては「登校拒否症」という病名などあって毎度のことだが、このような事態に精神科医などが中心に病気かどうかと口を出し、旧厚生省あたりがそれら報告をまとめ行政が火消しというかアリバイ作りをする。そんな中、引きこもっている本人たちが出てこられないので、この問題の当事者でもある困っている家族や親たちと民間の支援者が協力して、居場所を作ったり訪問活動をしたりと各地でその対応が行われる。00年代半ばにニートという言葉が輸入され、今度は旧労働省あたりが親の支援団体などに尻を叩かれて尻を叩き返えしたのが、民間の支援団体に委託した形で行う3ヶ月の職業訓練合宿「若者自立塾」だった。行き場がないのにニートの尻を叩いても、うまくいかずに結局この合宿はすぐにポシャる。これらは現在でも拡大版ハローワークのような形で、サポートセンターという名称であまり目立たないよう、支援団体として生き残っているが、相談に訪れた本人の尻を叩くかなでるというやり方は全く変わっていない。ついには10年代になると、親が死んだ後に本人が生きていけるようにと親の財産管理をするファイナンシャルプランナーのような支援者もあらわれる。そしてまた厚生労働省内で差し戻される形で、今度は旧厚生省あたりが発達障害などとして医療や福祉の問題とするが、それらの事情は次回にでも「障がい者」と題して文章を書きたい。こうして20年ほど民間や行政を問わず、引きこもり問題として労力や財を投じ対応してきたが、今でも多くの若者が引きこもり、何よりも20年前から引きこもっていた人が親の年金などを頼りに未だに引きこもったままであったりしている。その場しのぎに個人的な引きこもり問題をどうにかしようとするだけで、当人も含めこの問題に向き合っている者は誰もいないか、口を噤んでしかない現状が今でも続いている。

 

一方で、引きこもっている者を社会に出そうとする流れに批判的な意見もずっとある。引きこもりは他人にとって迷惑がかかるものでもなければ悪いことではない。吉本隆明が「引きこもれ」といって、文化的にか思想的にも保護すべきと発言したり、識者は個人に介入しようとする集団や社会を気もち悪がってみせたりした。いわゆるカウンセラーなどは、困っている親に対して「待て」と言うしかない。だが、当人も含めて、賢人らしい目でこの社会を変えることはできないし、ひどいものだと嘆いたところで良くは変わらなかった。その間、引きこもりは同じ不安や恐怖と何度も不毛な戦いをさせられ、引きこもらされ続け、孤立させられている。そのことを見て見ぬふりをしたい耄碌した爺さんたちの言い分は、行き過ぎた資本主義や高度経済成長を語っているふりをしているにすぎない。引きこもりをはじめ私たちを変えることができるのは、それがどんなにかひどい社会であっても、そこで生きている人との出会いによってである。その機会を根元から奪っているのが今の社会であるのなら、孤立、分断された者が集うことができる小さな場を一つでも作ることがこの社会での大きな仕事となろう。

 

引きこもっていない人というのは、自らが引きこもっていることをうまく隠し、他人と関われている人のことをいう。今の社会は、多くを分断させられ引きこもりに限らず孤立させられていて、会社などで働いてはいても社会的には引きこもっているなんていう人はもっと多い。引きこもり問題を誤魔化さずに向き合わざるをえないのは当の本人である。引きこもっている人こそが、この社会の根っこに広がっている引きこもり問題を個人としてでもなく解消できる。そのためには、家族以外のこの問題の近くにある者が、会いに行くことが大事である。あなたの精神は、あなただけが所有しているものではない。恥じることはない、引きこもり者よ、過去は捨て置き、出会い、社会へ放て。

2016,4,15 髙橋淳敏

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