支援の地平
引きこもりの支援のことではなかったが、とある場所で支援者といわれる人が話していた。その人が言うところの被支援者を、その支援者も立っているとされる社会へと、一人でも多く引き上げることが、「支援」であるというような内容であった。この場合、支援者が被支援者よりも上の社会に居て、下に居るとされる被支援者を上の(健全な?)社会へと、特定の専門家が支えるなり、お金なり、薬なりを使って引き上げることが「支援」であるという話なのだろう。もしかしたら、今でも多くの人が、それこそが「支援」の在り方だと思われているかもしれない。しかし、現代における問題の当事者(被支援者)とされる人への支援として、従来からも行われている一見わかり易いようなこのやり方は間違っているのではないかと思うことが多く、事業所の経営などとは別に、支援としてこのようなやり方ではうまくいかないだろうと思っている。そして引きこもりの支援はその最たるものではないかと考えている。
上のような支援モデルは、狭義であるかもしれないが福祉に代表されるだろう。企業を中心とした社会を、健常とされる核家族や単身の非正規雇用者などが支え、それらから税金を徴収しいわゆる社会保障費などとして、被支援者に下駄をはかせ企業社会に消費者として登場してもらう。医療費や薬代、収入のない人には生活費として、それこそ被支援者を引き上げる専門家とされる支援者の仕事などに当てられる。特に、今の国の政策を見ていれば、それだけが国民生活を支える唯一の手段であると考えられている節がある。だからこそ、実際困っている人には目もくれず、金融や大きな企業を優遇しその下で働く人が奴隷のように扱われても無視し、さまざまに出てくる問題は神経質に増殖する専門家などと呼ばれる人や事業所に丸投げする。一方で、当然成果が上がらないわけだが財源もなくなり、そのことを理由に社会保障費は削減され続け、福祉にまで自己責任や競争原理を持ちこんでいる。
まず上のような支援の仕方が成立しない大きな理由の一つは、支援者といわれる人が立っているとされるその社会が、構造的に上に位置していないことだろう。もちろん、社会保障費や助成金などで下駄をはいた支援者や事業所が一見、上の社会にいると思うことがあるかもしれないが、それはまやかしである。たとえ、被支援者自らも下駄をはく手段を得て、上の社会といわれるようなところで生活できたところで、そこは支えあって生きていく場所でもなければ支えてくれる人もいない上でも下でもない孤立した世界である。そのような孤立した世界でも、命があるだけましであると思うような状況なら、それらを利用するのが手であるだろうが、引きこもりに現れる問題などは明日食べるものがないなどの話ではない。孤立した世界では、引きこもっているときと同じく、人としての尊厳もなければ、自らを卑下する中であらゆる過去も保留にされたまま現在も未来もない。心配は10年20年後の安定した生活くらいであるが、それに対する自らはあまりに非力であり、世界は無責任である。
それでも、だからこそ私たちは社会に出て行かなくてはならない。その社会とはいったいどこに現れるのか。まさに被支援者とされる人たちが立っているその地平にこそ現れるのではないだろうか。そして、支援者は被支援者と同じ地平に立っているということを忘れてはならない。国がどんな政策を立てようとも、私たちは被支援者が置かれている地平でこそ支えあうことができ、あらたに社会を作り続けることができ、それこそが現実であるということを確信しなければならないだろう。それらは、弱く小さく病的かもしれないが、同じ地平で支え合える場所を、公民館や公園、ビルの中や店の中、自宅や路上にも、作り続けていくことが、支援の肝心要だと考えている。
それは、例えば引きこもりを発達障害などとして、病院や企業や家に囲い込むことなどではない。発達に障害を持っているのは上だとされる社会の方なのだから、支援者も被支援者も恥じることなく、うつむかず今置かれたその地平を見据え、もっとやりたいように現在を楽しくもやればいいのだ。
2015年6月19日 高橋淳敏