NPO法人 ニュースタート事務局関西

引きこもりの摂理

By , 2015年4月16日 5:41 PM

河内長野駅からバスで30分ほどの所にある滝畑村に行ってきた。50年くらい前にダムに沈んだ村で、現在もダムの周囲に家が点在していて、休日になると近くの都会から大勢の人が遊びにやってくる。今回誘っていただいたのが、かつてはダムに沈んでしまった家に産まれダムに沈んだ小学校に通っていたが離れることになり、今になって村に戻ろうと考えている方で、加えて案内してくれた方が現在の河内長野市の滝畑村在住の議員の方であったので、この村や市内の歴史や現在の状況なども知れたいい見学であった。なぜ、そこに行ったのかを詳しく語るスペースはないが、とにかく感動したのはダムをぐるりと囲んでいる岩湧山や槇尾山といった山の景色というか山々の存在であった。川を一つせき止めようが村が一つ無くなろうが、揺るがずそこにある山並を見たのか、移ろいゆく季節のなかで木々の多様な緑やわずかに残った桜を見ていたのか、離れるのも名残惜しかった。そういえば、先日三ノ宮で行われた神戸特別例会の会場の大きなガラス窓から六甲山が近くに見えたのも、安心した気持ちになれたので単に山が好きなだけなのかもしれないが、こういう景色で安堵するのは保守的なのかと考えたりもしながら、春になって山を見る機会に恵まれたことは嬉しかった。

 

水が低いところから高いところへ流れたりなんかすると、手品のような話しで驚きはするが、その状況が長く続けば、だんだん不安にもなってくるだろう。あるいは、それが当然のようにもなれば、人は適応していかなくてはならないのだろうが、もし水が常に低いところから高いところに流れるのならば、人が種としての存在を脅かされるほどの事態になるのかもしれない。水だけでもなく物事が高いところから低いところへと落ちていくのは、自然の摂理といった事柄かと考えるが、人はこの摂理を理解し自然に抗うようにも生きている。雨風を遮るようにそこにはない建材を持ってきて家を建て、その土地にはない品種の野菜を作り、その土地では食べられないものを輸送し食べる。そして、ダムを作る。10年ほど前にニュースタートで滋賀県の堅田へ米作りをしに行った農園で、そこの農家の竹村さんが「都会の人は自然がいっぱいあっていいと田植えの体験などに来るが、田んぼは本来こんなところに最初からあるものではなく不自然で人工的なのだよ」と皮肉交じりに言われたことなどを思い出す。人は自然に抗うことでしか生きられないが、どこかでこの自然の摂理とつながってもいないといけないといった話しだったろう。

 

自然の摂理ではないが、自然に抗うために人が発明し、もっとも人の生活の中で影響を与えているものの一つが資本主義であると考えている。お金持ちにもっと多くのお金をもたせるようにしたらそのうち庶民にお金が落ちてくるなんていう政治状況が最近でもあるが、これはもう嘘であるということが多くの人にも実感はできているだろう。皆が貧しく、頑張れば少しでも豊かになり、世界中のお金が日本に集まってきたあの時代と今とは違うのだ。お金は自然の摂理に反し、低いところから高いところに流れ、多く持っているところにより多く集まるように出来ている。お金は腐らないどころか、置いておくだけで増えていくという性質を人が作ったのだ。バブルが弾けてからも、道徳的な消費(否、消費自体が道徳的でもあった)によって、なんとか経済は回っていたが、先行き不安で皆が貯めこむようになってしまってから実体経済は目も当てられない状況にある。国は違ったこともあるが、私は生まれてからずっとこの資本主義経済の下に生きてきて、良いも悪いも小市民的に体験したつもりではある。しかし、その根本にあるより多く持っているところに集まるお金の性質がいつしか限界を超えて偏りすぎたからか、今の生活や人間関係に影響を与え続けていて、もう休日に滝畑村の山々を見に行く程度では、自然の摂理の中に在るだろう自らをとうに回復できないものになっていると思うのだ。かといって、田舎に暮らしても束の間は無関心になれても、無縁でいられるわけでなく、ダムの底に沈むか原発の影響で住むのも不安になるような話しになりかねない。どうにかして自然の摂理と関わる必要があるのだが、それは都会では人でしかない。でも、それが人であってももはや死病苦の中くらいしか出会える場所がないようにも思ってしまう。

 

さて、引きこもっている状態というのはどうだろう。部屋にずっといて生活しているのであれば、自然には抗っているように見える。でも、それは引きこもっていない人であっても同じことで、その点で引きこもっていない人から引きこもっている人が咎められることもない。違うとすれば、一つは例に上げた資本主義経済の下で生きながらも、引きこもっているのは、社会にも抗おうとしているかに見えることである。実際に抵抗はしていないかもしれず、そのような強い眼差しでもって批判的にお金の問題などを考えているかは人にもよって分からないが、彼らが関われないのは社会やそこにいる人であって、その社会を成立させるのに現在あまりに多くを頼っているのがお金であるのならば、社会に参入できないのはそのお金の原理が大きな問題であるとも考えられるだろう。引きこもりが現行の行き過ぎた資本主義経済社会の下でいかにして生き長らえることができるかも問題であるだろうがしかし、引きこもっていた人が今の社会を軽く飛び越えて、自然の摂理と出会った時の衝動にこそ、次の社会への芽があるのではないかと思うのだ。

2015,4,16 高橋淳敏

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